普勧坐禅儀より
「原ぬるに夫れ道本円通、争か修証を仮らん。宗乗自在、何ぞ工夫を費さん。況んや全体遥かに塵埃を出づ、たれか払拭の手段を信ぜん。大都当処を離れず、豈に修行の脚頭を用ふるものならんや。然れども毫リも差あれば天地懸に隔り違順わずかに起これば紛然として心を失す。」
この一節は道元禅師さまが、中国は宋の国天童山景徳寺の住職である如浄禅師さまより禅の本源を継承され、帰国後かつて修行しておられた京都の建仁寺において嘉禄三年(一二三七)に書き示された普勧坐禅儀の冒頭の一節であります。
この普勧坐禅儀は道元禅師さまが帰国後最初に書かれた、開教宣言ともいうべき教えであります。禅師さまはこの中で坐禅の意義と坐禅の仕方を懇切に説かれ普く人々に坐禅を勧められたのであります。
そもそも佛祖の説かれる悟りへの道は円満に通じており、悟りを志す修行者は悟りを求めて修行し、その後悟りが得られるなどと言う考えは誤りであります。道元禅師さまは修行と悟りとは一体のものであり、悟りを求めてあれこれと工夫を費やす必要などないと説いておられます。
お釈迦さまが十二月八日暁の明星が輝く時、菩提樹下でお悟りになったのは、「有情非情同事成道」であり、天地万物全てに佛性があり、万物は同等に存在意義をもって存在しているのであり、全て平等であるということであります。全存在は宇宙の道理に従って、因縁によって生じ、因縁によって滅しているのであります。人間をはじめ万物は本来佛性をそなえているのでありますから、宇宙の道理に従って生きるならば身も心も清らかで、塵埃などで汚れているはず等無いのであります。そこで道元禅師さまは「全体遥かに塵埃を出ず、たれか払拭の手段を信ぜん。大都当処を離れず、豈に修行の脚頭を用ふるものならんや。」と述べられ、塵埃を除き、悟りを求めて、あれこれと手段を労し、あちこちと出歩く必要など無いのであると説いておられるのであります。
中国禅宗の五祖は弘忍禅師さまでありますが、その会下に七百人の僧が修行していたとされています。その中で神秀という方が特にすぐれ、弘忍禅師をして神秀を「吾れ人を度する多きも懸解會照に至りては、秀に及ぶものなし」と言わしめました。しかし、実際には五祖弘忍禅師の法を最初に正しく継承したのは無名の慧能という僧でありました。この方こそ六祖慧能禅師でありまして、その流れをくむのが如浄禅師であり道元禅師であります。ここに神秀禅師の偈と慧能禅師の偈を紹介させていただき、両者の違いを考えていただきたいと思います。
神秀禅師は師匠弘忍禅師に「身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫使有塵埃」(身は是菩提樹 心は明鏡台の如し 時時勤めて払拭せよ 塵埃有らしむることなかれ)という偈を提出いたしました。
一方慧能禅師は師匠弘忍禅師に「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処有塵埃」(菩提もと樹なし 明鏡また台にあらず 本来無一物 何れの処にか塵埃あらん」という偈を提出し、五祖はこれぞ自分の法を継ぐにふさわしい人物であると認め夜陰に乗じて、密かに法の継承者としての証として袈裟を与え、嗣法いたしました。
以後慧能禅師は五祖の法を継ぎ、南宗禅を広められ、神秀禅師は北宗禅を広められたのであります。
二者の偈を比較すると、神秀禅師の偈は修行と悟りは別物であり、修行の先に悟りがあり、それを目標に修行を怠らないことが大切であると説き、一方慧能禅師の偈は修行そのものが悟りであり、今の一瞬も怠りなく修行することが即悟りであり、佛性・本来の面目の現成であると説かれたのであります。
如浄禅師も道元禅師も何にもとらわれることなく只ひたすらに坐禅をすることが最高の修行であり、行住坐臥この境地を忘れることなく、身心脱落の境地で日暮しすることの重要性を説かれたのであります。
(合掌)
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