正法眼蔵諸法実相の巻より
「仏祖の現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり。諸法は如是相なり。如是性なり。如是身なり。如是心なり。如是世界なり。如是雲雨なり。如是行住座臥なり。如是憂喜動静なり。如是柱杖払子なり。如是拈華破顔なり。如是嗣法授記なり。如是参学弁道なり。如是松操竹節なり。」
般若心経に諸法空相という言葉があります。この言葉は般若心経の根本の教えを一言で言い表した言葉であります。これは「この世のすべてのものごとは空であり実体がない、仮に和合したものである」ということであります。そしてこの諸法空相と諸法実相とは、結局同じことを意味する言葉なのであります。この諸法実相という言葉は法華経方便品に出て参ります。道元さまは正法眼蔵の多くの巻にこの法華経典より引用され、その言葉が引用されています。そしてこの諸法実相も悟り、真理を表す言葉として引用されたのであります。
実相とは現象を有るがままに有らしめているものは仏(真理)であるという意味であります。したがって諸法の一つである私たち人間も仏であり、真理としての存在ということになります。仏道修行はこのことに気づき、行持し、体現することであります。この世のあらゆる存在はそのありのままの姿が、ただちに真実の姿であるということになります。そこにおいては、ありのままの姿以外には何らかの観念的な理想の側面から、ありのままの姿を批判的に見るという唯心論的な立場でもなく、また逆に感覚的な側面からのみそれを眺め、諸法を物質的な要素のみから見るという唯物論的な立場でもない。つまりあらゆる存在はあるがままに有るのであって、右にも左にも偏らない存在としてとらえられなければならないのであります。ここに諸法実相という言葉は、その簡潔な言葉の中に仏教の世界観の究極が秘められているというのであります。
ここに引用いたしました一節は諸法実相の巻の冒頭の一節であります。道元さまはこの諸法実相の巻を寛元元年九月、吉峰寺において衆に説かれました。どの巻もそうでありますが、道元さまはその巻で説こうとされる要訣をまず冒頭の一節において説かれました。ここに引用いたしました一節につきましても、やはり難解な言葉があり、理解に苦しむ文章でもあります。一応私なりに現代語訳をさせていただきます。
(お釈迦様がこの世に現れ、達磨さまが中国に渡られたのは、そのことそのままが、ありのままの真実である。この世の諸々の実在は、それがそのまま真実の実在である。それがそのままものごとの本質である。それがそのままありのままの物体である。それがそのままありのままの心理作用である。それがそのままありのままの世界である。眼前の雲や雨はそれがそのままありのままの天然現象である。日常の立ち居振る舞いはそのままありのままの日常生活である。日常の感情の起伏もそれがそのまま真実の感情の起伏である。僧侶が使用する柱杖払子などの仏具もすべてそのまま真実の柱杖払子である。お釈迦様から迦葉尊者へ仏法が伝えられた故事の拈華破顔の事実もそのまま仏性の現成であり、単伝の仏法である。・・・)
道元さまはこのようにこと細かに例をあげて説いておられます。これを今一度要約すれば、仏の出世も祖師の西来もそのままの姿が実相であり、真理の現成である。お釈迦様に代表される諸佛の出世は諸法実相の体現の相としての現成であり、諸佛が諸佛自体として真理そのものの現成である。また、眼前の一切の森羅万象の現象、人生の一切の行動、仏道の一切の発心、修行、菩提、涅槃等の仏行そのままが真理の現成である。
人間の苦しみの原因は欲望(貪欲)にあります。欲望とは自分の心に思うがままになって欲しいと心に願うことであります。例えば人間生まれることは、その瞬間に死を約束されることであります。いくら年をとりたくないと願ってもかないません。これが苦しみであります。こだわりや欲望から少しでも脱することが出来れば、苦しみからも抜け出せるのであります。この世の全てのものは因縁によって仮に和合して、仮に姿、形、行動として現成しているにすぎません。全てのものは空であり無常であります。ものごとの真実の相を見定めて、とらわれを無くし、仏の真心に生きなければなりません。宇宙悠久の道理に従った生き方をしなければなりません。道元さまの傘松道詠の一つを紹介いたします。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」
今年が世界の人々にとって良き年でありますよう、お祈りいたします。
(合掌)
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