正法眼蔵随聞記より
「一日示に云く、古人安く(霧の中を行けば覚えざるに衣しめる)と。よき人に近づけば、覚えざるによき人となるなり」
お釈迦さまも道元さまも「一人が悟れば、その周りにいる者全てが悟る。世の中全てが悟りに包まれる。」と説いておられます。この心は悟りを開かれた仏さまやお祖師さまに近づけば、その有り難さに知らず知らずに打たれるということを意味いたします。新城市出身で永平寺の禅師さまになられた佐藤泰舜禅師さまは、目が不自由で晩年はほとんど物が見えないほどでありました。しかし、禅師さまとして、その人柄といい、深い智慧といい、まさに本当の意味で悟りをお開きになっておられた方でありました。その人柄をあれこれ表現することはもったいないことであり、言葉では説明出来ないのでありますが、禅師さまの前に行き禅師さまに近づきますと自然に手が合わさるのであります。それは理屈ではありません。オーラが出ているといいましょうか、後光がさしているといいましょうか、ともかく理屈抜きで有り難いのであります。道元さまはここで引用いたしましたように、先ず教育者の側の人格を問題といたしました。つまりここの引用文の意味は「古人が(霧の中を歩いて行けば、知らないうちに自分の衣が湿ってくる)と言っている。人格の優れた立派な人に近づき親しんでいると、知らぬ間に自分も立派な人になる。」ということであります。
この一節は教育者のあるべき姿について一つの理想を教えています。本当に優れた教育者は、これを教えてやろうとか、あれを教えてやろうとかいうような大上段に振りかぶったぎこちなさがありません。強者弱者の関係とか上下の関係というようなところもありません。ごく自然にその人のそばに居るだけでその人の不思議なエネルギーが伝わって来るというのであります。そのような教育者は、教育者被教育者という隔たりもなく、教育者は常に被教育者の気持ち、心をわが心として、我が子を思う父母の心、慈悲の心で被教育者を包んでしまうのであります。
例えば現在の学校現場においても、またあらゆる教育の場面においても良い教育者としての条件は、優れた人格と教育者としての識見をそなえ、常に相手の目線にわが目線を置き、どこまでも親切でなければなりません。例えば多くの児童・生徒を相手にする学校では一人の教師が、どの児童・生徒にも等しく教師が目指す目標を達成することは不可能かもしれません。十人には十人の個性、性格、能力があります。それを全ての欲求を満足させることは不可能かもしれません。しかし、教育の基本だけは忘れてはならないことであります。たとえどんなに多くの児童・生徒を相手にしょうとも、その個々の児童・生徒にとっては教師は一人なのであります。教師はどの子供に対しても等しく慈愛をもって教育に臨むべきは当然でありましょう。父母が我が子に愛情を注ぐように、教師は教え子に慈愛の心で接しなければなりません。そのようなとき教師は自分の打算、利害を念頭に置いてはなりません。自己中心的で偏見を持って教育にあたってはなりません。体裁を考えてはなりません。
このようなことは現在の教育制度の下では実現不可能のことかもしれません。しかし、この心だけは決して忘れてはならないことであります。そしてこのようなとき教師と子供との間に信頼関係が生まれ望ましい教育が成就するのであります
さて、昨今、秋葉原通り魔無差別殺人事件をはじめ、心いたむ事件が頻発しています。そこには学校、家庭、社会を含めた根深い教育の問題も横たわっていると思います。我が国戦後六十年の教育のひずみかもしれません。しかし、どのように時代が変わり、場所が変わろうとも教育の根本精神は変わるものではありません。
(合掌)
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