正法眼蔵洗浄の巻より
「佛祖の護持しきたれる修証あり、いはゆる不染汚なり。・・浄身者、洗大小便、剪十指爪、しかあれば、身心これ不染汚なれども、浄身の法あり、浄心の法あり。ただ身心をきよむるのみにあらず、国土樹下をもきよむるなり。・・きよむるは諸佛の所護念なり。作法これ宗旨なり、得道これ作法なり。
水かならずしも本浄にあらず、本不浄にあらず。身かならずしも本浄にあらず、本不浄にあらず。諸法またかくのごとし。水いまだ情非情にあらず、身いまだ情非情にあらず。諸法またかくのごとし。佛世尊の説、それかくのごとし。しかあれども、水をもて身をきよむるにあらず、仏法によりて佛法を保任するにこの儀あり、これを洗浄と称す。」
この巻は延応元年(一二三九)興聖寺において衆に説かれました。この洗浄とはいうまでもなく、身心の洗浄のことであります。爪を切り、髪を剃り、大小便を作法どうりにすることは、すなわち己の身心を清らかにすることであり、悟りへの前提条件であるというのであります。洗面の巻に(内外倶浄)どいう言葉がありますが、これも同様のことを意味し、洗浄により仏法はじめて現成するというのであります。それはむしろ洗浄そのものが佛の姿であり、悟りそのものであるということになります。ここに引用いたしました文を口語いたしますと、
「佛々祖々が護持し来たった修証は、いわゆる清浄がそれである。・・身を清めるとは大小便をかたちどうり洗い、十指の爪を切ることである、そういうことで、清浄とは身心にわたることであるが、そこに身を清める法があり、心を清める法がある。ただ、身心を清めるのみでなく、そのことが国土を清め、樹下を清めることになる。・・清めるということは仏祖の護り念じ来たったことである。洗浄の作法が宗旨であり、得道とは作法に他ならない。
水はもともと必ずしも浄というわけでもなく、不浄というわけでもない。この身も、もともと浄というわけでもなく、不浄というわけでもない。もろもろのものも、すべてそれと同じである。水に心があるわけでもなく、ないわけでもない。佛戒の立場を超越するならば、身も有情でもなく、非情でもない。物事もまたおなじである。これは「心」の問題である。これは佛の説かれたことである。そうであるから水をもって身を清めるのではなく、仏法をもって仏法を保つために、これをするのである。これを洗浄というのである」
道元さまは修行僧に対しまして実に綿密に、こと細かく日常の威儀作法を説いておられます。それには当時の修行僧にそのことが必要であったという背景があります。道元さまが帰朝後の建仁寺においてすら、僧侶の日常生活が道元さまのえがく理想像とは必ずしもなっていなかったといわれます。興聖寺においても、これを説く必要があったればこそ説かれたのであります。それと同時に道元さまは洗浄という行為が単に威儀作法の範疇にとどまるのではなく、その行為が即得道成仏それ自体であると説かれるのであります。したがって現在でも永平寺などの僧堂では便所(東司)には鳥雛沙摩明王という仏さまをおまつりし、洗浄のお経をお唱えいたします。お経は、
「大小便にあたって衆生は、よく汚れを取り除いて婬・怒・痴をなからしめよ。水を使うとき衆生は、無上道にむかって出世の法をえせしめよ。水をもって汚れを除き、浄忍を身にそなえて、いつまでも無垢ならんことを。水をもって手を洗えば、衆生は上妙の手を得て、仏法を受持せんことを。」という意味のとなえごとであります。これを私たちの立場から誓いの言葉として言えば
「大小便にあったて私たちは、よく汚れを取り除いて婬(貧り)・怒(怒り)・痴(愚かさ)をなくします。水を使うときわたしたちは、悟りにむかって修行に勤めます。水をもって汚れを除くとき私たちは、純粋な堪忍の心を身にそなえて、いつまでも無垢清浄を保ちます。水をもって手を洗えば、私たちは清らかになったこの手で、仏の教えを受け保ちます。」ということになります。
身をととのえることは、心をととのえることであり、身心一如にして「作法これ宗旨なり、得道これ作法なり」であります。曹洞宗が環境浄化をスローガンに掲げるのも、その心は洗浄にあります。
(合掌)
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