正法眼蔵道得の巻より
「諸佛諸祖は道得なり。このゆえに佛祖の佛祖を選するには、かならず道得也と問取するなり。この問取、こころにても問取す、身にても問取す。払子にても問取す、露柱灯籠にても問取するなり。佛祖にあらざれば問取なし、道得なし。・・その道得は、他人にしたがひてうるにあらず、わがちからの能にあらず。ただまさに佛祖の究弁あれば、佛祖の道得あるなり。かの道得のなかに、むかしも修行し証究す。いまも工夫し弁道す。」
この巻きは仁治三年十月五日観音導利興聖宝林寺において修行僧に説かれました。この巻きの巻題である道得の「道」というのは「言う」という意味であり、いわゆる「みち」という意味ではありません。ところでここでも私は正法眼蔵の道得の巻の一節を引用・紹介するのでありますが、これも本来全説、全文を紹介すべきであります。それが出来なくて、他の巻同様に道程の巻の一部、一節のみを紹介し、道元さまがこの巻で説き示そうとされたことを、私なりに口語訳し、他の巻同様に、あたかも道得の巻の全てであるかの如くに、ここに書き記すことは、甚だ不謹慎であります。そしてこの不謹慎、非礼をご容赦願いたいと常々自責の念に駆られているところであります。しかしながら、ここでこの巻もあえて意訳口語訳をさせていただきます。
「これまでに出現された諸佛、諸祖は、すべて悟りを得られ、それを説破された方々であるので、道得なりといえます。つまり道得とは真理・悟りを体得し、それを如実に言い得ることの両面であります。このゆえに前代の佛祖が後の佛祖を真実の佛祖として選択するには、かならず真実体験を言い得るや否や問いかけるのであります。この問いかけ、検問は口先だけではなく内面的心にても形としての身にてもする。さらに佛祖の問いかけのみにとどまらず、無舌の払子や真理を体現せる露柱灯籠にても問いかけるのである。しかしこのような検問は佛祖たるの境界にあらざれば問取なしであり、また真実にこの選にあづかる者でなければ道得なしであります。
その道得は他律的、他の佛祖知識にしたがい、他力本願では得られないし、かといって自分の力で経巻などによっても得られるものでもない。時節因縁があれば、自他を超越し、時空を超越した境界が得られるのである。それには不断の佛祖の究弁がなければならない。不断の佛智見の開発こそ道得を可能にすることである」
以上が意訳をまじえた口語訳であります。そしてこの巻は悟りへの境地を道元さまが説き示されたものであります。元来道得ということは或限定的な時間内におけることではなく、またその道得の様子も定まったものではないのであります。時には無言、無舌の道得もあり、言葉を尽くした道得もあるのであります。
語りかけ、問いただす佛祖も、自身が過去に於いて証究した道得が而今も功夫し弁道行持されるのであります。綿々密々として瞬時も断絶がないのであります。そして問いただされ、検問される佛祖も真実の佛祖を功夫し弁道し弁肯するのであります。そしてここに佛祖と佛祖が二面裂破証契即通し、徹見了得するのであります。これを「いまの道得と、かのときの見得と一條なり、萬里なり。」ということになります。萬里一條鐵とはこの境地であります。禅の奥義は言葉や文字では言い尽くせないのでありますが、不十分ながら道得の一応の解説をさせていただきました。
(合掌)
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