正法眼蔵現成公案の巻より
「人の悟りをうる、水につきのやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなる光にてあれど、尺寸の水にやどる。全月も弥天も、草の露にもやどり、一滴の水にもやどる。悟りの人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし。人の悟りを罣礙せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことは、たかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を検点し、天月の広狭を弁取すべし。」
ここに紹介いたしました一節は人が悟りを得る様子を述べられた節であります。道元さまは悟りを月に、水を修行者にたとえられいます。そしてまず「人の悟りをうる、水につきのやどるがごとし、月ぬれず、水やぶれず」と申されました。
それは悟りと人とが互いに少しも妨げ合うことがないということであります。佛教では本来貴賎、男女、利鈍、智愚の差別をきらい、絶対平等の立場をとっております。したがって人は老若男女だれしも悟りを得ることが出来るのであります。身心を挙して弁道すればこれが可能であるというのであります。そして修証は一等であり、互いに染汚せず「月ぬれず、水やぶれず」ということであります。もう少し分かりやすくいうならば、人は誰でも悟証できる。しかし悟証したからといって、特別に変わったものになるということではなく、もとのままである、水やぶれずということであり、平常であり、不染汚である。そして悟りという月は、どのような水に映ってもその水に汚されることがないのであります。
次に道元さまは「ひろくおほきなる光にてあれど、尺寸の水にやどる。全月も弥天も、草の露にもやどり、一滴の水にもやどる。」と申されました。広く大いなる光とは悟りの世界を意味し、それは全宇宙、天地自然のあるがままの姿であります。あるがままということは人間の我利我欲に汚されていないあるべき姿であります。その悟りは尺寸の水にも月の宿るが如く、全月も満天の星も、草の露にもやどることが出来るし、一滴の水にも宿ることが出来るのであります。これは悟証は誰にも可能であるということを重ねて説かれたのであります。
つづいて道元さまは「悟りの人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし。人の悟りを罣礙せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。」と申されました。「罣礙」とは妨げるということで、月が水に映っても、水に穴があくのでもないように、人が悟りを得ても、人でなくなるということではない。「ふかきことは、たかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を検点し、天月の広狭を弁取すべし。」悟りということは皆同じ階級であるという立場は、一面理解できるのでありますが、さりとて本当に同じ階級でしょうか。つまり修行の熟未熟によって、その悟りに明暗深浅の差があるのでありますが、悟りそのものの内容実質はみな同じということであります。これが曹洞宗が無階級禅を表に出して、階級禅を土台としていることをいうのであります。弁道話に「初心の弁道すなはち本証の全体なり」ということは無階級禅の立場をいうのであり、「修せざるにはあらはれず、証せざるには得ることなし」とは階級禅の立場であります。「ふかきことは、たかき分量なるべし。」とは修行が深ければ深いほど、悟りもまた深くなり、修証の深浅のあることを述べ説いておられます。たとえ私たちが生まれもって佛性が具わっているとしても、「修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」であります。また、その修行の深浅を「時節の長短は、大水小水を検点し、天月の広狭を弁取すべし。」といわれるのであります。「日々の行持これ諸佛の種子なり、諸佛の行持なり」と説かれるのも、日常の佛作佛行が如何に大切かということであります。仏法を仏道することが曹洞禅の大要であります。
(合掌)
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