曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)
道元禅師
道元さまのお言葉

正法眼蔵随聞記より

 

「花は年々に開くれども皆得悟するにあらず。竹は時々に響けども聴く物ことごとく証道するにあらず。ただ久参修持の功にこたへ、弁道勤労の縁を得て悟道明心するなり。是れ竹の声の独り利なるにあらず、また花の色のことに深きにあらす。竹の響き妙なりといへども自らの縁を待って声を発す。花の色美なりといへども独り開くにあらず。春の時を得て光をみる。・・玉は琢磨によりて器となる。人は錬磨によりて仁となる。何の玉かはじめより光り有る。誰人は初心より利なる。必ず磨くべし、すべからく練るべし。自ら卑下して学道をゆるくする事なかれ」
 嘉禎二年十二月二十九日、年も暮れようとするその日の夜、道元さまは孤雲和尚に半座を分かち、首座の位を与えられました。首座とは修行僧の第一座であり、長老とも言いまして修行僧をリードして仏道修行に励み、導く重要な役割であります。首座は時には師匠に代わって大衆に説法することもあります。半座を分かつとはこのような重要な意味があるのであります。その夜道元さまが説法された内容の一部が、ここに紹介いたしました一節であります。その内容は「花は年々開くが、それを見るものがすべて悟るわけではない。竹はいつも音を発しているが、それを聴くものがすべて悟りを得ているのでもない。ただ長い間参禅修行の功にむくい、弁道に苦労を重ねた縁があって道を悟り、心を明めるのである。竹の声が特別に、するどいはたらきがあるのではない。また花の色がとくべつに美しかったのでもない。竹の響きがすぐれた素質をひそめていても、それはそれなりの因縁があって、はじめて音を発するのであり、花の色が美しい色を咲かせる素質が有るといっても、勝手に花を咲かせるのでもない。春という季節の因縁、天地の恵みに恵まれ、因縁が整ってはじめて美しい花を咲かせるのである。それはむしろ竹、花のあるがままの姿が因縁によって生じるのである」ということであります。
 仏道参学の因縁もまた同様であります。学道の人が道を得るのは、同学同参のものの縁によるのであります。人はそれぞれすばらしい身心の素質を秘めているのでありますが、仏道を行ずるのは同参同学のものの力によるのであるから、今一つ心して坐禅弁道して仏道修行に勉励するべきであります。宝玉も琢磨してはじめてその光をはなつのであります。人も錬磨してはじめて真の人となるのであります。磨かない玉がはじめから光を発しているのでもなく、それとおなじく人も、すぐれたものを内に秘めていようとも、錬磨しなければすぐれたはたらきをする人とはならないのであります。
 道元さまはさらに「必ず切磋琢磨せよ。必ず錬磨弁道せよ。自らを卑下して弁道修行を怠ってはならない。光陰は矢よりも速やかにうつるものである。石頭禅師の参洞契には(光陰虚しくわたることなかれ)とある。私(道元)が一人で修行僧の皆さんに仏法を説き示そうとしても容易なことではない。さいわい孤雲和尚を首座にし半座を分け与えたので、孤雲和尚に私に代わって諸君の指導にあたっていただくことにした」と申されました。
 孤雲懐奘和尚は後、道元禅師より嗣法され、永平寺の二世となられた方であります。
 この一節は人間誰しもすばらしい素質、佛性を秘めているのであるが、弁道話で紹介いたしましたように、「人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」であります。曹洞宗で最も重要視するのが修証一等ということであります。知識学問による観念上の理論では真の佛道修行とはならないのであります。修行するそのものが即悟りであり、常に切磋琢磨して高め合うことが肝要であります。

(合掌)

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