正法眼蔵弁道話より
「もし人一時なりといふとも、三業に佛印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな佛印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。・・・このとき十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆佛事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあずかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に冥資せられてちかきさとりをあらわす。」
この巻は寛喜三年(一二三一)道元さまが宋の国から帰国されて間もない、まだ深草の安養院に偶居されていた頃に書かれた巻であります。この巻は最初は正法眼蔵に組み込まれていなかったのであり、後江戸中期京都の公家の屋敷より発見されたものであります。しかし、その内容は正法眼蔵の中でも現成公案の巻、佛性の巻と並んで、道元さまの教えを伝える大変重要な巻であります。なおその時道元さまは三十一歳でありました。道元さまはその教えを日本に広めようと決意され、日本における曹洞宗立教開宗の宣言書というべきがこの「弁道話」であります。
ここに紹介いたしました一節は佛教の根本である悟りと坐禅との関係について説かれたものであります。そして悟りを得る最上の方法について説かれ、端坐参禅こそ、その妙術であると説いておられます。それは、「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿ノク菩提を証するに、最上無為の妙術あり。・・すなわち自受用三昧、その標準なり。・・端坐参禅を正門とせり。この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」であります。
ところで曹洞宗は単伝の仏法と申しまして、師匠から弟子へと脈々と受け継がれ、お釈迦さまから達磨さまへ、さらに如浄さまから道元さまへと、インド、中国、日本へと西天東地嫡々相承して現在に至っているのであります。そして諸仏如来、代々の仏さまが伝えられた阿ノク菩提は自受用三昧であります。阿ノク菩提とは阿ノク多羅三貘菩提ともいい、阿は(無)ノク多羅は(上)三は(正)貘は(等)菩提は(覚)を意味し、阿ノク多羅三貘菩提という梵語は無上正等覚つまり悟りを意味する言葉であります。この悟りを得るとは仏智を得ることでありまして、仏智には四つの智慧があります。それは大円鏡智(鏡の如き明鏡止水の智慧)平等性智(だれにも等しく与えられる平等の慈悲の智慧)妙観察智(真理を正しく観察する智慧)成所作智(一切の日常の行為が仏行となる智慧)であります。その阿ノク菩提すなわち悟証とは自受用三昧でなければなりません。自受用三昧とは悟りを自ら悟証すること、つまり自らそれを受用し体験し体現することであります。つまりお釈迦さまから嫡々相承された正伝の仏法・悟りの世界を自己の生活の全てに実践体現することであります。そして道元さまはそれを体験し体現し体顕する正門は坐禅であると説かれました。悟りの世界とは特別なものではなく、天地自然、有情非情の万物が有るべきように、有るべきところにあることであり、それを神ともいい佛ともいうのであります。つまり人類共有の世界であります。
そして一時なりとも三昧に端坐するとき、遍法界、尽虚空、この世の世界が全て佛印つまり悟りの世界、真如を現すというのであります。只管打坐・ひたすらに坐るとき自己が無限に関連する絶対的世界の中に溶け込み、融合して自他の境界が無くなり侵すものも侵されるものも無くなり、あらゆる世界が時間も空間も悟りの世界として見直されるのであります。そのとき逆に「このとき十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆佛事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあずかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に冥資せられてちかきさとりをあらわす。」となり、悟りの世界が自己を包み込むのであります。これが坐禅の功徳であります。
ところが私たちが坐禅を致しますと雑念、妄想が次から次へと心にうかび、ただ何も考えまいと思って坐禅をいたします。するとその考えまいとすることにとらわれてそのとりこになってしまいます。それは仏の行とも思えないし、安楽の法門とはほど遠く、身心脱落などとはまるで違う坐禅になってしまいます。これが私たちの現実であります。坐禅をしてみると、私たちは平生、いかに心に落ち着きを欠いているかがわかります。道元さまは普勧坐禅儀という教えの中で、「道本圓通」といわれたのは、普通の人間は普通の人間の視点でものを見、ものを考えて迷っているのである。これを視点、物差しを仏のそれに移したならば、全ての迷いから解放されるのであると説かれました。坐禅をするにあたっては、いかなる観念観相にもとらわれることなく、「ただ坐る」坐禅を道元さまは仏祖正伝の坐禅と説かれたのであります。正法眼蔵三昧王三昧の巻に「あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり、仏祖の眼睛裏に打坐すること、・・」とありますが、それは仏の尺度で坐るということであります。つまり道元さまの坐禅は、これから坐禅修行してはじめて悟りに到るというのではなく、かえって、自分という「吾」を「無色透明」にして、いかなる吾という尺度も用いることなく、測ることなく、ただひたすらに坐禅をすることが即ち悟りそのものであると説かれるのであります。
(合掌)
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