曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)
道元禅師
道元さまのお言葉

教授戒文より

 

「それ諸佛の大戒は諸佛の護持したまう所なり。佛佛の相授あり。祖祖の相伝あり。受戒は三際を超越し証契は古今に連綿たり。我が大師釈迦牟尼佛、摩訶迦葉に付授し、迦葉、阿難陀に付授し、乃至是のごとく嫡々相授して已に幾世堂頭和尚に到る。今将に付授して、謹んで佛祖の深恩に報じ、永く人天の眼目と為んとす。蓋しこれ佛祖の慧命を嗣続するものなり、仰いで佛祖の証明によりて応に帰戒懺悔すべし。至誠に語に随って伝唱せよ。
 我昔所造諸悪業 皆由無始貧瞋痴
 従身口意之所生 一切我今皆懺悔
既に佛祖の証明によりて身口意業を浄除し、大清浄なることを得たり。これすなわち懺悔の力なり。」
道元さまは正法眼蔵受戒の巻きに「西天東地、佛祖相伝しきたれるところ、かならず入法の最初に受戒あり」というお示しがあります。ただしここで道元さまが説かれるところの戒というものは、悟りに到るための手段、手順ということではありません。つまり道元さまは戒法を頂くことは、それ自体が悟りそのものの姿であるということを説いておられます。
禅の大要を究めるには戒定慧の三つを究めなければなりません。戒とは佛の十六条戒を護持することであり、定とは坐禅であり、慧とは智慧のことであります。そしてこの戒・定・慧の三学一如という言葉がありますが、それは戒の中に定と慧があり、定の中に戒と慧があり、慧の中に戒と定があるということであります。
 次に戒とは人間が本来そなえ持っているところの自性清浄心、つまり佛性を意味しており、それの発露であると言えましょう。そしてその佛性の発露に従った行為は森羅万象、全宇宙のありのままの姿を謂い表した行為であります。それが即ち戒であります。天地自然、全宇宙のありのままの姿には嘘、偽りなどありません。春には花が咲き、秋には葉が落ちる等これが天地自然の道理であります。それで佛の道に参じ、佛の道を問うということは、過ちを離れ、不正を為さないのは当然の道理であります。自己がこの道理に従って生きる、それが佛戒の根本であります。
 道元さまの遠孫の経豪さまが著された「梵網経略抄」に「戒とは森羅万象の自道取なり」という言葉がありますが、これはこの道理をいうのであります。さらに「戒は制止なり・・制止というは釈迦牟尼佛始めて菩提樹下に坐し給いて無上正覚成り終わりて、結成を制止と名づく、故に我、大地有情と同時成道、と制止するなり、故に佛戒という」とあります。制止ということはお釈迦さまが菩提樹下において大宇宙の道理を覚られ、その道理を弟子達に説かれたその教えであり、一般社会における悪を禁ずる等という単なる規範を意味するものではありません。つまり単なる道徳律ではありません。お釈迦さまは「我と大地有情と同時成道す」と申されました。正法眼蔵佛性の巻に「ただ我が身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへになげいれて、・・」とありますが、吾我が大地に没入し、その道理に従い、その教えに帰依し、それに従い生きるのが戒であります。
 この戒は「諸佛の護持したまう所なり。佛佛の相授あり。祖祖の相伝あり。受戒は三際を超越し証契は古今に連綿たり。我が大師釈迦牟尼佛、摩訶迦葉に付授し、迦葉、阿難陀に付授し、乃至是のごとく嫡々相授して已に幾世・・、永く人天の眼目と為んとす。蓋しこれ佛祖の慧命を嗣続するものなり。仰いで佛祖の証明によりて応に帰戒懺悔すべし」とありますように、帰戒の前に吾が身心の犯せし罪を懺悔しなければなりません。
 我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴
 従身口意之所生 一切我今皆懺悔
の懺悔文にありますように、吾が今までに犯せし罪咎は身と口と心によって行われた煩悩の所業であります。それでこの懺悔文を心より唱えることによって懺悔の力により身口意によってなされた悪業を浄除し、我が身心が大清浄になると説かれるのであります。

(合掌)

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