「仏様を拝む時に、お唱えをするのですか」と、尋ねられることがあります。「南無阿弥陀仏」あるいは「南無妙法蓮華経」など、それぞれの宗旨に基づく、唱えごとがあるからです。
では曹洞宗では、どういうお唱えをするのでしょうか。
曹洞宗では「南無釈迦牟尼仏」とお唱えします。
ではどうして各宗派によってお唱えが違うのかと言いますと、仏についての見方が違うからです。
仏教の教えは、仏とは何かということが根本なのです。
曹洞宗では仏をどのように見ているかと言う事を考えると、なぜ「南無釈迦牟尼仏」とお唱えするのかが分かってきます。そこで修証義の結びのところを拝読致します。「いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏ともに仏となるときは、必ず釈迦牟尼仏となるなり、これ即心是仏なり。即心是仏というは、誰というぞと審細に参究すべし。正に仏恩を報ずるにてあらん。」
あらゆるすべての仏、この大宇宙全体と過去・現在・未来の歴史の全体をまとめての仏が釈迦牟尼仏であり、それが即心是仏である。そして最後にその即心是仏が誰なのか参究しなさいと示されました。
ここに南無釈迦牟尼仏とお唱えする理由がお分かり頂けると思います。決して他の仏を排除して一つの仏を拝むのではなく、総ての仏を含めて南無釈迦牟尼仏ということを忘れないで下さい。
そして最後に即心是仏が誰なのか?と示されるのです。答えを一言で言えば、「ありのままのあなたの心、それは仏さまですよ」と言う事です。しかしそうゆう意味ですが、ここで説明をして答えを出すと、それで終ってしまいますから、修証義では即心是仏は、誰のことなのか、と問いかけているのです。
これで仏様に手を合わせて「南無釈迦牟尼仏」とお唱えする事が、あらゆる仏様すべてを拝む事であり、お釈迦様を拝む事であり、自分自身の仏様を拝む事になると、はっきりお解りいただけたと思います。
心得てお唱えして頂きたいと思います。
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