曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

坐禅とこころの救い [No,1388、3月19日〜3月25日]

静岡県三島市 耕月寺副住職 甲賀祐慈 師

 ひとの苦しみはどこからやって来るのでしょうか。こころが苦しいという。自分の思い通りにならないこころとは一体何なのか。それがはっきりすれば、こころの問題も自ずから解決します。こころは、イコール自分です。自分とは何なのか。これは、人間にとって大昔からの大問題です。仏教はそれを根本的に解決する道として生まれ、お釈迦さま以来、伝えられて来ました。
 こころとは一体どこにあるのでしょう。試しに自分のこころを今見つめて下さい。自分のこころが見つかりますか。こころと思っているものは、今考えていることや思いであって、こころがどこにあるかわからないと思います。こころだと考えてみても、考えがただあるだけで、こころを見るということはできません。この話しを聞いているときには、自分のこころを意識しませんし、ものを見るときにもこころとは関係なしに目が働いています。そして考えたり、思ったりするのも、目や耳が働いているのと同じ。からだの働きの一つでしかありません。これが自分だ、自分のこころだとあとから説明することはできます。でも、こころそのものを見るということはできないのです。それなのに、ひとはこのからだにこころというものが宿っていると思っています。それが、仏教でいうところの無明の煩悩です。これを解決するには、あらゆる働きに、自分のこころというものが無いことを知れば良いのです。自分のこころという作り物から手を放すのです。「放てば手に満つ」そうお経の中にあります。それを一番最初にやったのがお釈迦様です。
 それでは、自分から手を離したらどうなるのか。それは今と何も変わりません。変わらないけれども、自分が無いと分かったら、自分中心にものを見なくなります。回りの景色がそのまま自分の様子として実感できます。辛いときには辛い、悲しいときには悲しいということはそのままあります。でも、自分が辛いのでも自分が悲しいのでもない。自分を通さずに、縁にしたがって、辛さ悲しみがパッと出てパッと消えるのを繰り返す様子です。いつまでも自分中心に留まっていられないのが本当のありようなのです。
 これから悟ってそうなるのではありません。今すでに誰もが自己無くあるのです。あると思っている分迷っているような気がしているだけです。本当にこころの救いがほしかったら、坐禅がその正門であります。どうぞ参禅してこころの真実をみつけてください。

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