般若心経には、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が説かれています。六根は六つの窓とも言うことができます。私がこの現実の世界を見たり聞いたりする時には、眼や耳をとおしているからです。そして、この五つの窓を統括して、外界の情報を取りまとめているのが、第六の意識であり、第六識といわれています。では心の窓といわれる眼はどういう働きをしているのでしょうか。あるがままに見るということは、決して眼のはたらきとはいえません。見てはいるのですが、自分の物指しで見ているということができます。
我が子が小学校一年生になって、初めての運動会のかけっこにでることになり、五・六人の子どもがスタートラインに並びました。その時、親の眼は何を見るでしょう。我が子しか眼に写っていないのです。ほかの子どもたちは眼のレンズをとおってはいるのですが、親は我が子以外は見えていないのです。旅行の折などに記念の集合写真をもらったりします。十人が十人とも先ず自分を見ます。自分がよく写っていると、いい写真だ…、目をつむっていたり、変に写っていると、こんな写真…と面白くありません。
六根・六つの窓には、万人共通のきまったかたちはなく、自分の物指しで見たり聞いたりしているのです。般若心経は無眼耳鼻舌身意と教えています。私たちは自分の物指しで見るという「凡夫の眼」から離れることはできませんが、これに気付くことはできます。この気付きを教え、私が凡夫であることを示してくれるのが仏法であると思います。
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