曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)
たのしみ法話
たのしみ法話

今、ここをどう生きるか [No,1399、6月4日〜6月10日]

愛知県田原市 醫王寺副住職 小川弘貫 師

「坐禅は見通しのきく高い山へ登るようなものだ。ふもとの雑木林の中に埋もれていると、自分を取り巻くほんのわずかな空間しか見えず、したがってその見える範囲だけが我がすべての天地だと思ってすぐにいい気になったり、また一向に見通しがきかないから、ちょっとしたことですぐ生き詰まる。坐禅というのはそこを抜け出して、広く視野の開けた高い山へ登るようなものだ。」
 これは澤木興道老師という方のお言葉です。
 高い山からの見渡しは、空間的広がりしか見えませんが、仏法・坐禅という山からの人生の展望、社会の展望は、遮るものの無い空間の広がりに加え、無限の時間的見渡しまでも掌中に読み取らさせていただけます。
 ここで大切なことは、何のために見渡すことが必要なのかの一点を忘れてはならないということです。それを忘れたら単なる遊びに過ぎません。
 日々に具体的問題が続出する人生の現場にあって、私共は毎日毎時間“今、ここをどう生きたらよいか”を何ものかに向かって問い続けております。過去・現在・未来の時間的展望が出来て初めて「今」という座標に立つ自分の生き様が、生きる方向付けが決まってくるのです。宇宙的広がりの展望から帰納しての「ここ」という座標に立つ自分の生き様が決まってくるのです。
 どんなに我が身のまわりの藪が生い茂り、あるいは踏み込んだ谷が深かろうと、禅という仏法と言う山の上からの展望が常になされている限り、前人未踏の渓谷は一層見ごたえのある風景でしょうし、足をとられる湿原や手足を傷つける野バラは、また楽しい散策の慰みとなることでしょう。

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