日常に何気なく使っていることば。このことばのやりとりの中には、理解できることや理解できないこと、人を傷つけることもあり、安らぎをもたらしてくれる場合もあります。
ある方との会話です「おまいりの時になんと称えればよいですか?」という質問があって、「南無釈迦牟尼佛とおとなえします」とこたえると、続いて「どんな字ですか?」と問われるので、書いてから「曹洞宗のおとなえです」と言って手渡しますと、「ありがとう」と言って大事そうにしまわれました。後日、そのお宅でお経があり伺うと、お仏壇の中に置いてあったり、見えるように貼ってあったりするのを見かけます。「おとなえを上げていらっしゃるんですね」と言うと「教えてもらったから」…「ありがとね」等と言ってくださいます。なんと親切な言葉だろうと感じます。
また、友人宅を訪れたときのことですが、ちょうどカメラを片手にもっていた私は、玄関先で友人の子がにこにこして遊んでいる写真を撮りました。撮った後に「(写真が)出来上がったら送るね!」というと「なんのためにぃ?」と聞かれ、返答が出来なかったのです。写真が届けば喜ぶだろうと、考えた私自身のやりたいことしかなかったのだと教えてもらった気がしました。
私たちの教えの中に、布施・愛語・利行・同事というのがあり、それぞれが時代を越えての真理であるというのです。
・思いやりの心で広くいきわたるよう一生懸命なすことをなし
・気持ちを込めて慈愛の言葉を発し
・はからいの心を捨てて相手のために行い
・他(た)のことも自分のことのように考える…という意味です。
実際にどんな行動をとりどんな言葉を発するかは、その状況になってみなければわからないのですが、一つ一つが繋がっていて、口には出さずとも、相手をおもい自分のことのようにするというのも同じことです。つまり自分勝手ではなく、ふかくおもいをめぐらし、行動に移したり、言葉を発するということです。
自分勝手であれば、心を安んじることのできることばは、出ません。自分の都合ではなくできるだけ広い視野をもって、大切にことばをつかっていきたい。
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