曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

死を縁として・・・ [No,1448、5月12日〜5月18日]

静岡県浜松市 龍秀院副住職 伊藤恵文 師

 私たちは、この世に生まれてしまい生まれてきた以上必ず死をむかえなければなりません。
 こればかりは、何が何でも真実なのです。しかも死と言うものは、いつ来るかまったくわかりません。今の世は、100歳をこえる大変よい時代、自分は健康だから長生き出来るだろうと思っていても、突然の事故や病気などで明日死なないとも言い切れません。
 そう考えますと、その時その時まさに今この一瞬をムダにしないようにし、また生まれてきたことを大きな喜びとしなければ意味がありません。
 たとえば、人様の死に出あったとします。ご葬儀などで無き方をお送りする際、安らかに旅立っていただけるように心をこめてお送りするのは当然のことだと思います。ですが、それだけで終わってしまうのではなく、もし自分が送っていただく側であったらと置き換えて考えてみていただきたいのです。はたして自分は、皆様方に手を合わせて送っていただけるだけの価値のある生き方がなされているのかどうか?自分では十分だと思っていても、仏様の目から見ればまだまだ至らない自分かもしれません。死を縁として、一度足を止めて、自分自身を振り返ってみてはどうでしょうか。気が付くところがきっとあると思います。
 このように、死をテーマに考えているとあまりいい気持ちではないかもしれませんが、それはまったくの反対であって、真剣に考えれば考えるほど「生きる」と言うことを大事に考えることができるのです。
 死を本気で考えることが出来た時、生きて暮らしている今日と言う目がどれだけ輝いて見えるでしょう。
 たとえいつ死んでも、「ありがたかった、悔いがない人生だった」と言って旅立って行くことがもし出来たのならどんなに幸せでしょうか…。

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