15世紀のヨーロッパで著された、裁判の物語があります。原告はボヘミアに住む農夫。その動機は、彼の愛する妻が子供達を残して死んでしまったことに始まります。深い悲嘆にくれた農夫は、この残酷な現実を受け入れることが出来ずに、妻を奪った相手である「死」そのものを、殺人罪で訴えるのです。判決を下すのは神様。両者の壮絶なやり取りが始まります。
農夫は訴えます。「私は、お前によって喜びに満ちた生存を奪われ、日々のよき生活を奪われたのだ。それ故、私は永久に叫び続けようと思う。死よ、呪われよ!と」
それに対して死は「死すべき者を嘆き悲しむのは愚か者だ。やめよ!君の嘆きは空しい。それは君に何の役にも立たない」と。お互い一歩も譲らずに口論が続きます。
そして最後まで戦い抜いた後に、神様が判決を下します。「汝らはよく戦った。それ故に原告よ、汝は栄誉を受け取るがよい!死よ、汝は勝利を受け取りなさい!」と。
この判決を聞いた農夫は納得し、神様に向けて、妻に永遠の休息を与えて欲しいとの祈りを捧げるのです。
この物語から私達は、命あるものは必ず死ぬという現実を突きつけられます。死が勝利を得たからです。そのため、これは残酷な物語かもしれません。
しかし、身近な者、愛する者が死を迎えれば、納得できずに悲しみや怒りで悶え苦しむのも当然です。その時は、どんなに泣いても構いません。自分が納得できるまで悲しむことが、死を受け入れることに繋がるのかもしれません。泣いて泣いて、そしていつか泣き止んだら、その時こそ休息の祈りを捧げられるのではないでしょうか。
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