曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

天地の恩 [No,1518、9月7日〜9月13日]

静岡県賀茂郡松崎町 禅宗院住職 土屋興祥 老師

 世の中の人には、「わたしは、誰の世話にもならずにやってきた」と言いきる人がいます。自分で、事業を起こし、苦労し、成功した人は、思わずこういう気持ちにもなりましょう。しかし考えてみると、この世の中で、誰の世話にもならず、何のカも借りずに、事業が、成り立つという道理はあり得ません。誰の世話にもならず、という思いは、自分、つまり我(われ)が、という気持が強く出てきたものといえるようです。今、わたしたちが生きていくためには、毎日の食べ物や、着る物、住む家、更には、太陽の光、空気、水などが必要です。このうちの、どの一つが欠けても、健康に生きていくことはできないでしょう。そう考えると、わたしたちは、この天地の恵みの、計り知れない大きなお陰の中に生きている。いえ、生きているというよりも、生かされている、ということのほうが本当なのかもしれません。誰の世話にもならずにやって来たという人は、このことに気が付かずにいるか、気が付いても、忘れてしまっていると思えるのです。
 生かされていきるや今日のこの命天地の恩かぎりなき恩
 この恩は、親の恩とか、恩返しをするということばでよく使われますが、天地の恩、かぎりなき恩によって、自分というものは、計り知れない大きな恵みの中に生かされている。そのことを、ほとけさまのお慈悲だと受けとれば、ほとけさまの大きなお慈悲の中にいる自分というものに気付かせていただくことにより、そのかぎりないお陰に対して感謝をする、という気持ちが芽生え、それは何て幸せなことなのでしょう。ということだと思うのです。わたしが、わたしがの我(が)ではなく、お陰、お陰のげで暮らす感謝の生活によって、争いも無く安らかな暮らしが、自然にできてくるのではないでしょうか。

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