先日、本屋さんで、京都の有名な庭を紹介した写真集をパラパラと見ておりましたら、ちょっと気になる言葉に出会いました。
それは、庭の解説で引用されていた天野忠さんという詩人の、こんな言葉でした。
「庭の良し悪しは、厠の小窓から覗いて見るとよく分かります。庭が油断してますから」
厠は、ご存じのようにお手洗いのことですが、どこから見られていても魅了される佇まいを具えているのがよい庭、という訳です。
もちろんそこには、庭を造り維持する人の手が要りますから、庭の油断は人の油断とも言えますね。
まあ、それはともかく、私はこの言葉を読みながら、庭のことなのに何だか自分のことを言われているような感じを受けていました。
公の場ではよそいきの表情で構えているくせに、それこそお手洗いのような人目に付かない場所では気を抜き手を抜いている。
そんな自分が見えてきます。
それで思い出されるのがお寺の玄関などで見かける「脚下を照顧せよ」という言葉です。
脚下とは足下、つまり自分のいる場所、日常のことです。そこを仏道に照らし顧みる。
公の場所であろうと厠であろうと関係ありません。
今、自分のいるところ、そこで為すべき事を正しく為しているか、ということです。
箸の上げ下ろしから立ち居振舞、言動に至るまで、些細なことに思えても正しく行っているか照らし顧みることが修行です。
「脚下を照顧せよ」の言葉も、天野さんの言葉もそこを鋭く突いてきます。
私などは思わずドキッとしてしまいます。
人の良し悪しは日常に現れる表情です。ただし、どちらを現わすかは本人次第です。
修行というのは正しく生活することであったと改めて思い知らされた次第です。
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