いつも食卓に置かれている御茶碗、ご飯が盛られ当たり前のようにある姿。物心ついたときから自分専用であり成長とともに変わっていく姿。私達にとって特別な食器ではないでしょうか。
そんな、特別な食器に毎日食事を盛り、洗ってくれる人に私達は感謝していますか?
お寺では、料理担当の僧侶を典座といいます。いただいた材料は、量の多い少ない、質の良し悪しを言わず、ただひたすら誠意を尽くして調理しています。
食事の材料が自分の心に入り込んで離れず。あるいは心をその材料に注ぎ込んで離れないような気持ちで、心と食べ物と一体になり、精魂を込めて典座の職務の中で精進修行しているのです。
ただ当たり前に、食べて、食べ終われば、そのままで、片付けてくれるのも当たり前と思っている私達。
食事は生きていくのに、一番大切なことです。命を大切に守るものなのです。
しかし、私達は、その大切な食事を粗末にしてはいませんか?好きな物はいただくが、苦手なものは、箸をつけずそのまま、苦手な料理は食卓にも出ず、口にすることすらない。
食事を簡単に考えていませんか?御茶碗一杯のご飯、その向こう側に、たくさんの人の真心が隠れていること。子どもの頃、自分の御茶碗を買ってもらい、うれしく大切にした思い。大人になり、知らず知らず忘れてしまった感謝の気持ち。
毎日とは言いません。たまには、ご馳走様の後、自分で片付け、洗い物をしてみては、改めて、有難さ、大切さを感じるのではないでしょうか。
食事とは、ただ御腹を満たすだけの行為ではありません。心と身体を育てる、命を守るための行いです。
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