曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

どこにもここにも [No,1604、4月25日〜5月1日]

三重県鳥羽市 龍泉寺住職 二村宏一 老師

この目の前に真理は惜しみなく現れている。それに気づくことができれば、心に安らぎが出てくるのです。
私達は、救われないなぁと思い、悲しみますが、求める心の眼が本当に開いたらどうでしょうか?いつも真理の真ん中にいる事がはっきりわかるのです。
 例えば自分の家の近くに並んでいるお店やお家をあげてみてください。毎日通っている道でも、何だったかな、となかなか思い出せないものです。新しくできているお店にすら、気づかない事があります。
 お店は、お客さんに来てもらう為に、自己紹介をしています。“喉が渇いたなぁ”“お腹空いたなぁ”と思うとコンビニエンスストアやファミリーレストラン等の看板が目にとまります。それは向こうから飛び込んで来るのです。
 それらのお店は、注意を引きやすいように、看板を出しているのですが、こちらにその心が無かったら、見ていても見えないのです。
 真理もまた看板をかかげ、誰の目にも、耳にも、見せて、呼びかけています。
 しかし、それを私達の心が、より分けて目隠しをしてしまうのです。“私が”という実感はどうしても、消えません。
 その目隠しを取る方法が坐禅です。姿勢を調え、呼吸を長くし、ゆったりとした気持ちで坐ってみましょう。すると心が落ち着いてきます。ちょうど水槽の中の濁った泥水が、時間が経つにしたがって澄んでくるように、自分の心の中にある自分勝手な心が消えていきます。自分の心を静かに見つめるうちに私たちが本来持っている、何にでも気づく心を取り戻すことができるのです。
 さあ、目の前にはたくさんの真理が現れています。その一つ一つに気づけるようになった時、あなたの心の中に安らぎが出てきているはずです。それは悩みや悲しみにだけに向いている眼が、少しずつではありますが「ありのままの自分」というものに気づかせてくれるからだと思います。
 そして、このありのままの自分に気づいた時から、お釈迦様に近づく第一歩が始まるのです。

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