先日、お寺で行われた落語会の噺の一つに「松山鏡」がございました。このお噺は、
その昔、鏡を知らない村の孝行息子がお殿様より鏡を賜ります。 鏡をのぞきこんだその男は、そこに映る自分の姿を亡き父親と思い込み、会うことができたと喜びます。そして毎日、鏡を覗き込むようになります。
ある日、それを不審に思った妻が鏡を覗き込んでみますと、妻はそこに映る自分の姿を夫の浮気相手と勘違いし、二人は喧嘩になってしまいます。そこに通りがかった尼僧さんが仲裁に入ってきてオチがつく。というお噺でございます。
このお噺は、風刺のきいた喩え話を集めた『百喩経』というお経の一節を基にして作られたといわれております。
さて、ここに登場する「鏡」。これは私たちの「心」を喩えているのではないでしょうか。人は多かれ少なかれ、自分で見たり、聞いたりしたものが真実であると思い込んでしまいがちです。
これは何もこの噺の中だけのことではありません。私たちにも思い当たる節がありませんか。
「経教はこれを喩ふるに鏡の如し」という言葉がございます。自分の姿を映すものが鏡であるならば、自分の心、自分本来の姿を私たちに映してくれる、そんな鏡のようなものが仏さまの教えなのです。
永平寺を開かれた道元さまは、「お金を持っていてもいなくても、心が穏やかであろうとも心がすさんでいようとも、どんな状況であっても『自未得度先度他』の心、即ち自分がまだ救われなくても、まず他の人を救いたいという「菩薩さま」の心を起こしなさい」と申されております。これを実践することは、本当に難しいことだと思います。
けれど、たとえ出来ない、困難だとしても、そうありたいと願う、仏さまの教えを鏡として自分の心と向かい合う。これこそが仏の教えと共に生きるということではないでしょうか。
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