仏道を学ぶということは、ある意味で人間を学ぶということであります。仏法とは人間の学びであり、その実践であると言ってよいと思います。今日は、その道に生きた先人達がどのようなことを、後の人の戒めとしたか、ということをお話したいと思います。
「示して云わく、学人各知るべし、人人大なる非あり、憍奢是れ第一の非なり。内外の典籍に是を等しく戒めたり。外典に云わく、貧ふして諂(へつ)らはざるはあれども富で奢らざるはなしといひて、なを富を制して奢らざらん事を思ふなり。最も是大事なり。よくよくこれを思ふべし」。
正法眼蔵随聞記の言葉であります。意味は、
「道元禅師は示して言われた。仏道を学ぶ人たちは、その一人一人がよく心得ておかねばならぬことがある。人にはそれぞれ大きな欠点がある。その第一の欠点は「奢り高ぶる」ということである。このことについては、仏教の典籍でも、またそれ以外の書物でも、同じように注意を与えている。儒教の典籍の中に、
「貧乏な暮らしでも、媚びへつらったりしない、清らかな心の持ち主はあるが、お金や物を沢山持って奢り高ぶらない者はない」
と、書いてあり、「お金や物を沢山所有することを抑制して、奢りや高ぶりの心が起こってこないように注意をし、配慮をしているのである。求道者には一番大切なことである。よくこのことを考えてみなければならない」。となります。
人は日常生活において、ほんの些細な言葉の行き違いで、何気ない素振りの中にひどく傷つけられたり、互いに信頼を失ったりします。それは自分が気づかぬうちに行ってしまうものです。その気付かないで落ち込んでしまう第一の非が憍奢、つまりは、奢り高ぶりということです。
ですから、私たちは常に自らの生活を反省し、行いを慎み、謙虚である事を忘れてはいけません。
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