よく「門松は冥土の旅の一里塚」といいますが、これはトンチで有名な一休さんの言葉だと言われています。正月が来てまた一つ歳を取り死に近づいていく、門松はその目印だというわけです。そのとおり人はみないずれ死にます、この「いずれ」くる死にたいして今、いろいろと考えて不安を感じる人もいらっしゃるでしょう。
私の修行時代の話ですが、道場にはお経や座禅はもちろん、他にも炊事や風呂焚きなどいろいろな修行があります。それを修行僧が手分けして役にあたるわけですが、当然初めはうまくいきません。そこで私はそこの生活にすこし慣れたころ、次に自分が当たる役をうまくやろうと、予め予習をしたのです。そして初めての務めを無難にこなし、ホッと胸をなでおろしていました。その時私を見ていた老師に声を掛けられました。
「おまえさんはこの務めについてよく勉強してきたようだが、その勉強をしていた間自分のやるべきことをきちんとやっていたのかね。」と。私は予習に夢中になり自分の本来の務めがおろそかになっていたことを反省しました。
修行僧というのは毎日の生活すべてが修行なのです。いくら不安があるからといっても、自分が今やるべきことを疎かにしてまで明日に備えるというのではなんにもならないのです。
時間を線にたとえるならば長い長い線が真っ直ぐに伸びています。ところがこの線を近くによって目を凝らしてみると、ちょうどミシンで開けた穴のように小さな点がずーっと並んでいます。この一つ一つの穴を「今」というのです、後ろにも繋がっていない前にも繋がっていない。それがずっーと続いている。たとえ次が最後の瞬間でも次は次、今を疎かにする理由にはなりません。
正岡子規は随筆集「病床六尺」に、『悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。』と書き記しています。死ぬ時が来たら死ぬ、生きているときは心配しないで生きていればいいのです。
正月を迎え、私たちはまたお天道様からまっさらな三百六十五日をいただきました。一つひとつの今を丁寧にしっかりと生きて参りましょう。
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