曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

お葬式と向かい合う [1684 H24年11月5日〜11月11日]

愛知県大府市 長澤寺徒弟 山田康永 師

お葬式とは、本来は亡くなられた方のために行うものです。それは、亡くなられた方が仏弟子となり、無事にご先祖様の仲間入りをしていただくための儀式です。

しかし、近年では特に、残された方達のためのものでもあるのではないか、と私は思います。それは、家族の方たちだけではありません。亡くなられた方と関わりのある、もっと多くの人のことを指すのです。

かつて、私も修行中に友人を亡くしました。修行を終えて帰ってきてからそのことを聞き、悲しさとともに、非常に残念な気持ちになりました。彼の最後を見送ってやりたかった、と。

最近では「家族葬」が多くなったと聞きます。そこには様々な理由があるのでしょう。実際、私も身内だけで行う葬儀を否定するつもりはありません。

しかし、思い浮かべてみてください。自分の一番の友人が亡くなった時、その最後を見送ってやれない、という状況を。それは、とても悲しいことではないでしょうか。

お釈迦様の教えに、「愛別離苦」、というものがあります。愛するものとの別れる苦しみのことです。それは、四苦、つまり生・老・病・死と同じく逃れることのできない苦しみです。ですが、その苦しみを和らげることはできないことではありません。別れの苦しみをしっかりと受けとめ、愛するものとの過去を意味あるものとすることができれば、その別れは今、そして今後の自らの生き方をも変えるものとなりうるのです。

亡くなられた方との別れをそのように受けとめるための場として、お葬式が重要な役割をはたします。亡くなられた方と面と向かうことで、何を残してもらったか、これから自分はそれによって何をなすべきかを改めて考えることができるのです。

ですから、お葬式とは、人が人として生まれ、生きてきたという証を確認する儀式でもあるのです。そこには、残された方たちへの意味もしっかりと含まれています。これから先、お葬式にふれる機会もあるでしょう。そのときには一度、こういったことも考えてみてはいかがでしょうか。

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