私たち禅宗の僧侶は正月に遺偈を作ります。遺偈とは漢詩で表わした遺言です。その年のいつ亡くなってもいいように正月に書きます。
仏弟子として師匠から何を学びどのように実践してきたのか、また後の人に伝えたい一句を述べるとしたらどのような言葉を残すのか。偽りや飾りを捨て、今、言えることを述べたのが遺偈です。
僧侶として私は多くの人の死に出会い、いのちには限りがあるとわかっているのに自分の死はまだ先だという気持ちがありました。それは真剣に遺偈を作ってこなかったことからも明らかです。
私は今まで大病を患うことがありませんでした。しかし昨年末、病を得、生涯ではじめて手術を受けました。手術の日、午後一時に看護師さんが私を迎えに来ました。手術台に登ると心電図や血圧計などいろいろな器具が私に付けられました。全身麻酔をするために脊髄に細いカテーテルが入れられました。その後、仰向けになるように指示がありました。仰向けになりながら私は室内の時計を見ました。
「ああ、一時十分か。」
その直後から何も覚えていません。痛みもありません。呼吸も止まっていたのでしょう。四時間後に私は目を覚ましました。もし目が覚めなかったなら私の末期の眼に映った今生の風景と感慨は「ああ、一時十分か」ただそれだけです。
末期の眼に映る風物が美しいと言える人は末期でなくとも美しさを見出す眼を持った人だったのでしょう。その人が生きてきた瞬間と同じ末期の瞬間しか迎えることができないと分かりました。それゆえに、いのち有る今日一日を末期の眼をもって見、語り、人に接していかなければなりません。
書き残す遺偈も大切ですが、日々、何を考え、何を言い、何をしたのかということこそその人その人の遺偈なのではないでしょうか。
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