私が住職をしているお寺は漁師町にあり、以前のような活気はなくなってきたとはいえ、今でも多くのお檀家さんが漁業に従事しています。
あるお檀家さんのご自宅に、昨年亡くなられたお父様の法事でお伺いしました。ご供養を終えお茶をいただいていると施主さんが仏壇を見ながら、
「親父は何十年も船に乗って、いっぱいの魚を捕ってわしらを食わしてくれた。生きていくために食べるのはええと前に聞いてわかった。けど、生きていくために捕るのはどうなんやろ・・・」
と。以前、「不殺生戒」の人は生きていくために他の命を取らなければならないこと。その命に感謝し、無駄にしなければ良いことをお話ししてありました。ですが、同じ「とる」でも“食事を取る”と“魚を捕る”では違ってきます。
「私たちは自分一人で何もかも出来るわけではありません。晩御飯に魚が食べたいと思ったらほとんどの人は魚をお店で買ってくることでしょう。
魚を捕る人、運ぶ人、売る人。漁に出るまでにも船、燃料、網等を作る人。魚がお店に並ぶまで数多くの人の手がかかっています。すべてがそろっていても漁師さんがいなければ漁に出られません。網がなければ魚が捕れません。運ぶ人がいなければ魚が傷んでしまいます。どこが欠けても新鮮な魚が食卓に上がることはありません。お父さんは多くの人のお世話になるのと同時に次の人のために働いていたんです。多くの人のお世話に感謝し、次の人のために自分の持てる力を尽くしていたなら良いのです。」
先のお檀家さんには、このようなことをお話しさせていただきました。このことは漁師さんだけではなく、すべての職業に当てはまります。私たちは有形無形関わらず多くのお世話を受けることによって生きています。そのお世話をお返しできる時に持てる最大限の力を発揮してお返ししたいものです。
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