こんな話があります。
あるところに両親を亡くした小さな女の子がいました。
彼女はとても信心深い夫婦に大切に育てられました。
彼女もまた日々の祈りのうちに幸せに暮らしていました。
ところが、あるとき彼女はその教えを捨てることを決心します。
涙ながらに彼女はこう言います。
「墓地のかたすみに、眠っていらっしゃる御両親は、御教えも御存知なし、
きっと今頃は地獄に、お堕ちになっていらっしゃいましょう。
それを今わたし一人、天国の門にはいったのではどうしても申し訳がありません。
わたしはやはり地獄の底へ、御両親の跡を追って参りましょう」
いかがでしょう。
これは芥川龍之介の『おぎん』という小品の一節です。
私はこの物語を読むたびに、こんなことを考えます。
およそ「自分」のことを愛おしく思わない人はいないでしょう。
また「自分のもの」に愛着を持たない人もいないでしょう。
誰もが「自分」の信じるものを大事にし、「自分」の愛する人を大切にするものであり、
これはとても自然なことのように思います。
しかし、どういうわけか、私などが妙に惹かれるのは
「他者」のために「自分」にとって大切なものを捨てた、彼女の姿ばかりです。
果たして彼女のように「自分」にとって大切なもの
あるいは、もっと端的に言うなら「自分自身」を捨ててでも
なお「他者」に寄り添うことなど出来るものなのでしょうか
私はいま、信仰の行き着く先というのは
「自分」を捨てて「他者」に寄り添うことであり
彼女の意思と何ら異なるものではないと考えています。
それは見果てぬ夢にすぎないのかも知れません。
しかし、私には、彼女に憧れを抱くことが出来て
初めて信仰の道に立てるような気がしてならないのです。
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