修行時代、いっしょにいた僧侶が私に「親父が死ぬかもしれない」と言った。
私は「早く実家に帰ったほうがよい」と勧めた。
当時、私たちは山深い修行道場に居た。それぞれの家族構成とか生育した環境など雲水同士で話すことがなかった。
その日はじめて、彼が育った家の様子を以下のように聞いた。
彼の実家には和綴じの冊子があり、代々の家長は自分の死を悟った時、その冊子に来し方を記すのが習わしだった。
家督を継承した曾祖父も祖父もその一生を振り返り、おおまかな経歴と子孫に伝えたいことをみずから書き残していた。
父親が死ぬかもしれないと私に告げたのは、彼の母親が「お父さんが深夜、冊子に向かっている。あわてないが一度帰って来てほしい」と手紙を寄越したからだった。
その話を聞いたのは四十年も前であるが、今でも私は忘れられない。
遺産分割を明記した遺言も遺言には違いないが、一生を過ごして感じたこと、知り得たことを子孫に伝えるのが本当の遺言だと思う。
長くもあり短くもある人生、心残りや悔しさは有ったであろう。しかし、遺言を読む者は故人の来し方に思いを致し、その志を読み取ることができる。
生きるとは様々な縁を生きることである。夫婦となったことも、職業に就いたことも、迷惑をかけたことさえも、その人その人に授かったいのちを全うする一期一会の縁であったに相違ない。
遺言を書いている人のいのちはその人限りのものであり、誰も代わって生きることはできない。しかし、共に生きたいのちの灯を父は伝え、子は受け取ることができる。
この世に人として生まれることは希有なことである。そのうえ死ねば二度とこの生を繰り返すことはできない。たった一回を生きたその結論を伝えるのが遺言ではないでしょうか。
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