曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

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たのしみ法話
たのしみ法話

生活を修行する []

岐阜 瑞現寺 坂英世 師 

日頃お檀家さんとお話をしておりますと、「修行には行かれたのですか?」「もう修行は終えられたのですか?」といったことをよく聞かれます。もちろん私も修行道場で過ごした経験がありますので、「行ってきましたよ」とお答えしておりますが、ここにはひとつ問題があります。ご本山などの修行道場で過ごしていた期間が修行であって、修行というのはその期間だけ行えば済むものなのだろうか、こういう問題です。普段はあえて訂正することもないのですが、本来で言えば、私たちにとって仏の道を修行することは一生涯のことです。

 道元禅師さまは「偏界一叢林なり」というお言葉を残しておられます。これは「あまねく世界全体がひとつの修行道場である」ということです。どこかに修行道場という場所があり、そこで修行することが修行であると、私たちは考えてしまいがちですけれども、道元禅師さまは逆のことを仰っておられます。修行としての行いがあるところ、そこが修行道場であって、仏の道を歩む人にとって修行道場でない場所などない、こういうことになります。

 もうひとつ、修行を行いから考えてみますと、いわゆる修行道場での特別な修行生活というものがあって、その生活を送ることが修行である、これもそうではないのです。私がご本山に行って何を学んだのかと自問したとき、確かに特別な作法も学びましたが、今思い返してみますと、一番の学びは「生活を修行する」という生き方です。朝起きてから寝るまで、すべての生活を修行としてとらえ、ひとつひとつの行いを、仏さまの恩に報いる行いとしてとらえ直していく。私が学んだことは修行生活の作法ではなく、生活を修行する作法であったと表現する方が正しいように思います。

 「生活を修行する」と考えてみますと、これは檀信徒の皆さま方にも通ずるお話です。修行というと難しいものと考えられるかもしれませんが、たとえば食事のときに手を合わせるという振る舞い、これは生活を修行してきた先人たちが遺した作法とも言えます。合掌をヒントに考えてみますと、私たちは生活をしている中で、どれだけ感謝の行いができているだろうか、と点検してみるのはどうでしょうか。たとえ一人で暮らしていても、食事をしたり、家の掃除をしたり、そのほか家事をしたりということは、きちんと行えば仏さまへの恩返しになります。仏さまを大事にするということは、自分の生活を大事にすることでもあると、覚えておいていただければ幸いです。

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