春は出会いや別れを通じて「縁」を考えずにはいられません。
「縁起」という言葉があります。一般的には「縁起がいい」「縁起が悪い」といった吉凶についての表現で用いられ、その意味においてご存知の方も多いでしょう。しかし、本来この「縁起」は仏教の言葉であり、縁(よ)りて起こるとよめるように、世の中にあるすべてのものは、単独で存在しているのではなく、必ず他とのかかわりの中で成り立っている、その働きを指し示す言葉です。
「縁」という言葉を考えるとき“お世話になった先生”“ともに学んだ友人”といった印象的な出会いを私たちはまず思い浮かべますが、「縁起」はそれだけにとどまらない、より広大な範囲での他とのつながりを意味します。
曹洞宗の僧侶の良寛さまが次のような詩をお書きになられています。
華 無心にして 蝶を招き
蝶 無心にして 花を尋ぬ
花 開くとき 蝶来たり
蝶 来るとき 花開く
吾もまた 人を知らず
人もまた 吾を知らず
知らずして帝則に従う
という詩です。
花は蝶を招こうとする心があるのではなく、蝶は花をたずねる気持ちがあるわけでもない。花開く時ただ蝶がやってくるのであり、人もまた知らずして人とすれ違い、或いは出会い関わってゆきます。そこには何の計らいもありません。意図することのない自然の理に則り生きている、それだけに過ぎないという内容です。
限りなく広がる命のつながりに思いを馳せながら、花が先草木も芽吹くこの季節、外に出ると私たちの周りにあらゆる命が、きらきらと輝いて見えてきませんか。すべてのものと支え合って生きている奇跡の様な自分自身の命に驚き、そして感謝し、しっかりと生きてゆきたい、そのように思うのです。
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