私の所属する青年会では年に二回、余剰な調味料や食材、不要になった物などを集めてバザーを行い、その売上げを寄付しています。
お借りした会場には、お稲荷さんの社があり、私達はその前にかかるような形で場所を宛がわれていました。私達は運搬に使ったダンボールが邪魔にならないように、社の敷地の一部に一時的に置かせてもらっていました。「お稲荷さんには悪い事をしちゃったなぁ」「後で謝っておかないとね」と、先輩と苦笑いしていたのを覚えています。
その時ふと、私は思いました。私達はお稲荷さんをあたかも実在するかのように扱い、この様なやり取りを行いましたが、それらを信仰しない、存在を信じない人にとってはただの宗教的な建物でしかありません。仏様も同じ扱いでしょう。人によって有(あ)り様(さま)が変化する、つまり決まった形を持たないモノ。神仏とは実在するのかしないのか、酷く存在が曖昧なものだ、と。
しかしそれは何も、神様仏様に限った事ではありません。身近なモノでは、私達の「感情」、ひいては「心」もまた、存在が極めて曖昧なモノです。自分の心や感情であればまだ分かりやすいですが、他人に関してはどうでしょうか。笑っているように見えて、実際は怒っているかもしれません。何でも無いように見えて、実際は傷付いているかもしれません。でもひょっとしたら、見た通りかもしれません。今目の前にいる人がどんな感情を抱いているか、そこに「在る」か、はっきりと言いきれますか?
「その実在を他人に証明するのが難しい」と言う意味では、「神仏」も「心」も同じです。でも私達は、自分達に心があると言い切る事が出来ます。その存在を、信じているからです。
他人との関わりが少なくなりつつある社会ですが、「自分には心がある」と思うならば、接する誰かにも心がある事を忘れてはいけません。他人の心も、神様仏様を敬うように大事にしていきたいものです。
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