宇野全智君というわたくしの友人が書いた「禅を生きる」という本を参考にしました。
お布施、布施行についてのお話しします。
禅の問答で良く聞くのが梁の武帝 達磨大師に問う、という禅問答です。
ある時 宮殿にダルマ大師が訪ねてきます。「私はこれまでたくさんのお寺を建立したり、お坊さまを育てるのに力を注いできました。これほど仏教に貢献した私には、一体どんな功徳があるのでしょうか?」
それを聞いたダルマ大師は一言、「無功徳 功徳なんかないよ」とだけ答えます。
その反応に武帝はきょとんとして、次に「お前は一体何者なのだ?」と問いかけます。
ダルマさんは「不識、そんなものは知らん」と答え、二人の会話は一向にかみ合いません。
ダルマさんは、宮殿を早々に後にして少林山の洞窟に入り、壁に向かって九年の間黙々と坐禅に打ち込むことになります。
「無功徳」はそのまま読めば「功徳なんてありませんよ」これまで散々仏教にお金と力を注いできた武帝に、功徳がないときっぱり否定したのです。身も蓋もない言い方ですね。
しかし達磨は本当に、武帝の功績自体を意味ないものとして切り捨てたかというと、決してそうではありません。武帝が布施をする目的が、何らかの見返り・功徳を求めるものであるとすれば、それは本当の功徳を生まないのだと言いたかったのです。
お布施や喜捨、喜んで捨てることは、金品にまつわる私たちの執着を離れる修行として行われるのです。
皆さんはお寺や神社にお賽銭を入れてお願いごとをする時があると思います。私も千円札とか五百円玉、百円玉などを賽銭箱に入れて、家内安全や身体健全、受験合格などお願いしています。
何か気持ちがいいとか、喜びというか、すがすがしい気持ちになりませんか?
お布施をした人と受ける側、お賽銭やお布施の三つがこだわりや執着を離れている状態が理想の姿とされています。
坐禅をして悟ろう、悟ろうと悟りをがむしゃらに求めることも同じです。ただ座る、ただひたすら坐禅を組む状態は、悟りという清らかな水の中にザルを入れて、きれいな水で満たされているのです。
お布施やお賽銭の金額は、大きすぎず、かといって少なすぎず、「ちょっと痛いな」くらいの金額がよいと思いますね。自分の執着を手放すのですから、自分の執着が乗る金額でなければ意味がありません。
坐禅や修行体験も静かなブームで、よくマスコミに取り上げられていますね。
自分自身の気持ち、心と向き合いながら、心静かに座り、そこからこの自分の周りのすべての自然、すべての世界がつながっていることを感じられる、禅的な日本人の本質を見いだそうとしているのかもしれません。
大衆の威人力という言葉をご存じでしょうか? たくさんの修行僧たちの力によって厳しい修行を続けることができるということを、道元様や瑩山様はおっしゃいました。ぜひよい仲間とご一緒に、心静かに自分を見つめたり高めていただければと思います。
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