曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター) 〜たのしみ法話 過去新聞掲載〜

曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)
たのしみ法話
【行儀】(ぎょうぎ)について

2017年5月掲載
【行儀】(ぎょうぎ)について
 そういえば最近、「行儀が悪いよ」と注意する人を見かけなくなりましたね。
 どうですか?みんな行儀がよくなったのですかね。
 いやいや、ながらスマホなんて行儀が悪いと思いますが、
 注意してあげるのも親切だと思います。

【諦める】(あきらめる)について

2017年4月掲載
【諦める】(あきらめる)について
 どうにかしようという気持ちを捨て去ることで消極的なマイナスイメージを色こくもっている言葉である。
 この言葉は仏教起源のものである、こちらの方では最高のプラスイメージが与えられている。
 「諦」(たい)は、「サッティヤ」など、「真実」を意味するサンスクリット語からの漢訳語。
 したがって「諦める」は「真実を明らかに知る」「さとる」ということになります。

【知足】(ちそく)について

2017年3月掲載
【知足】(ちそく)について
 南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領は、持続可能な発展と貧しい人々の貧困からの救済についてお話しになりました。 「私たちは発展するためでなく幸せになるために生まれてきました。人々はより多く消費するため働くことをやめません。消費が滞れば経済がマヒし、不況というお化けが姿を現します。」
 『貧しい人とは、持たざる人ではなく、いくらあっても満足しない人だ』
 環境問題の原因は私たちの社会のあり方であり、見直すべきは私たちの生き方であるのだと、ムヒカ氏は訴えられたのです。

【無用の長物】(むようのちょうぶつ)について

2017年2月掲載
【無用の長物】(むようのちょうぶつ)について
 「あっても役に立たず、かえってじゃまになるもの」を「無用の長物」といいます。
 一般的には「長物」は「長すぎて役に立たないもの」と解釈されていますが、もともとは仏教の言葉で、「ちょうもつ」または「じょうもつ」と読みます。
 修行者が持つことを許されている生活用具は、「百一物」といって、どれも各々一個ずつ蓄えることができるとされています。同じものが二つある場合など、必要のない余分なものを「長物」といい、持ってはいけないものとなるのです。
 そこで、自分の身の回りを見てみると、「長物」ばかりなことに気がつきます。自分にとって必要のないものを手放していくことは、心がすっきりと軽くなることにつながっていきます。そして、怨みや怒りなど心の底に積もった塵も、「無用の長物」です。それらも、すっきりと手放して、心軽く生きてみたいものです。

【金輪際】(こんりんざい)について

2017年1月掲載
【金輪際】(こんりんざい)について
 インドの古代、仏教の世界観では、虚空のなかに、風輪という空気の広大な層があり、その上に水輪という水のかたまりがあり、その上に金輪という大地があります。金輪の上に、私たちが住んでいる世界の大地や山、海が乗っています。金輪の底の底、水輪と金輪との境目を金輪際といいます。金輪際は、金輪の上に住んでいる私たちにとっては、「これより先がない」ぎりぎりの線で、物事の極限の意になりました。
 また、大地が球体の上であることが認識されていない時代でしたので、平面に世界を考えていました。金輪の上に、九つの大山、四つの大陸や海が乗っています。すべての中心が須弥山(しゅみせん)があり、これがヒマラヤ山脈と考え、四つの大陸のうち南にある贍部洲(せんぶしゅう)が人間が住む大陸で、インド亜大陸と考えています。
 『修証義』(しゅしょうぎ)の第五章のはじめにある「南閻浮」(なんえんぶ)は贍部洲のことです。

【礼拝】(らいはい)について

2016年12月掲載
【礼拝】(らいはい)について
 仏教では、仏様や祖師に対し心からつつしみ敬うことをいいます。
 人間がお互いに拝み合うことで、その人の生き方を認め合うという敬虔な姿なのではないでしょうか。私たちの考えがおよばないこと、自分たちではどうしようもないことがあれば、それでも祈らずにはおられないことがあります。今こうして生かされている私たち、それだけでも尊くありがたいことなのでは。そして自分の知らないところでも多くの方々に支えられ助けられて今があります。今があることに感謝する心を忘れない。そして自然と正しく手を合わす合掌、それが礼拝となって人々の心をつなぎ共に手を取り合って生きる世の中になってゆけるのではないでしょうか。

【礼拝】(らいはい)について

2016年11月掲載
【上品】(じょうぼん)について
 通常、上品は「じょうひん」と読みますが仏教では「じょうぼん」と読みます。これはもともとは品位を表した言葉ではありませんでした。
 観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)というお経にでてくる仏教の信仰を表した言葉です。阿弥陀如来の極楽浄土について説かれたお経で、その中で極楽浄土へ生まれ変わる者を九種類に分けて説いたものの一つです。
 上品とは生前、仏教の信仰が厚く、規律正しい生活を送った方をさす言葉です。生きているときの品位は死後にも影響すると考えられていました。
 できることなら、信仰を持って心穏やかに、上品に生きたいものです。

【柔軟】(じゅうなん)について

2016年10月掲載
【柔軟】(じゅうなん)について

  「セトモノとセトモノとぶつかりっこするとすぐこわれちゃう
  どちらかがやわらかければだいじょうぶ
  やわらかいこころをもちましょう」

 という相田みつおさんの詩があります。
 自分本位、個人化の進む現代には理不尽が事件などにあふれています。
 ぶつかりっこする前に先ず相手をゆるす心を持ちましょう。
 執着心を捨ててお互い思いやる助け合う柔らかい心を皆が持てば、もっともっと日々の暮らしや人生が楽しいものになるはずです。

【空】(くう)について

2016年9月掲載
【空】(くう)について
 空は(くう)、空っぽということです。自分の部屋にあれもこれもと詰め込みすぎてしまうと、身動きができなくなってしまいます。そんな時には、部屋の中にあるもの全部外に出してしまって、本当に必要な物から順番に入れなおすとすっきりした部屋になり、勉強や仕事もはかどります。私たちの頭の中や心も同じことで、詰め込みすぎると苦しくなることがあります。そんな時には空っぽにしてみる。息を吐き出すと自然にきれいな空気が体に良いものが入ってきます。
 中々口で言うほど簡単なことではありませんが、それでも、いろいろなことで迷ったり悩んだとき、 「空っぽにする」という方法もあることを知っていれば、何か良い方向に進んでいけるきっかけを見つけることができるかもしれません。

【生活】(せいかつ)について

2016年8月掲載
【生活】(せいかつ)について
 就活(就職するための活動)、婚活(結婚相手探しの活動)、終活(人生の終わりを心置きなく迎えるための活動)。
 どれも人が、しあわせになるための手法の一つとして重要な活動といえるかもしれない。
 しかし、どの活動においても家族や周り、社会などからさせられた時には、しあわせになるどころか逆に不幸なこととなる。
 どんな活動も自発的であることがたいせつである。
 「生活」というと繰り返される日常を想起するが、終活や婚活のように「生」と「活」の二文字に分けてみれば、生きるという目的とそのための活動と読み取ることができる。
 日常に慣れきってしまえば、生きるという目的を忘れてしまう。
 今日という貴重な時間が無駄に費やされてしまう。
 いま生きているという喜びやありがたさに、どんどん鈍感になって行く。
 いのちは、当たり前にあるのではない。だから、昨日の繰り返しとしての今日にしてはならない。
 一日一日を意識して大切に使う。
 生きていることを再確認する。
 生命を活性化する、これが生活。

【三昧】(さんまい)について

2016年7月掲載
【三昧】(さんまい)について
 野球三昧、釣り三昧などのように、○○三昧とは一つの事に一心不乱に打ち込んで熱中していることを表します。しかし本来「三昧」とはインドの古代サンスクリット語である「サマーディ」を音写したもので、心が統一された静かな状態を表す仏教語です。

 私たちは常に心のどこかで勝敗や損得を気にしながら行動していることが多いように思います。そこでお釈迦様は右往左往して迷い続ける私たちに「制止」することの大切さを伝えました。「もうどこにも行く必要がない。ここにとどまりなさい。」と。

 三昧とは「何かのために何かをする」という目的や手段を持たない静かな世界のことです。そして、それはまさにお釈迦様や道元禅師様が伝えられた、「坐禅」の世界そのものです。

 坐禅をすることに目的や手段はありません。坐禅をすれば坐禅をするという目的は既に達成されているのです。もちろん勝ち負けや損得などの利己主義もありません。そこにこだわる必要も、とらわれる必要もないのです。

 私たちには呼吸を整えて静かに坐る時間が必要だと思います。澄んだ心で、「自分」を忘れ、何かのためではなく、行為そのものになりきることに、私たちの本当の幸せと安らぎがあるのです。

【無所得】(むしょとく)について

2016年6月掲載
【無所得】(むしょとく)について
 現在では、各個人が働いて得た金銭的報酬を所得といっています。したがって無所得とは収入がないということです。しかし仏教用語としての無所得は、見返りを求めない心のことをいいます。
 みずから努力したならその結果がほしくなり、人のお役に立ったなら「ありがとう」のひと言がほしくなります。しかし、そのこだわりが返って新たな苦しみを引き起こしています。
 期待した結果が得られなくても、努力した事実は消えません。「ありがとう」のひと言がなくても本当に人のお役に立ったなら、それでよいではありませんか。
 見返りを求めて悩むより、努力したこと自体を喜べる人になりたい。なにごとにもこだわらず、今を丁寧に生きたいものです。

【安穏】(あんのん)について

2016年5月掲載
【安穏】(あんのん)について
 仏様の悟りは煩悩を整える知恵と物事を優しく包む慈悲の働きを持っています。
 人生は波風を乗り越えて、そこで修行して知恵と慈悲が育ちます。
 すると後ろめたさはなくなります。
 そのように生きた時、老後もあの世も安穏です。

【日日是好日】(にちにちこれこうじつ)について

2016年4月掲載
【日日是好日】(にちにちこれこうじつ)について
 歌手の藤巻亮太さんの曲名にもなっている言葉ですが、元々は1000年以上昔、中国の雲門禅師のお言葉として現在に伝わっています。

 雲門禅師はある日、大勢の弟子たちに向かって
 「十五日以前のことはさておき、これから十五日以後の心境を一言でのべなさい。」とたずねました。
 弟子の誰も返答が出来ずにいると、雲門は自ら、即座に「日々是好日」と答えました。

 NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」主人公の父武蔵は、幼少期に両親と別れ親戚をたらいまわしにされ苦労を重ねます。
 結核のため若くしてこの世を去るのですが、家族との平凡なあたりまえの毎日が送れることの幸せをかみしめ、日々の暮らしをとても大切にする人でした。

 生まれてから死ぬまでの迷いの人生をいかに生きるか、私たちに問いかけてくれるありがたい言葉です。
 頭でわかろうとしても、さまざまな人生経験を通してしかわからない言葉だと思います。

【ご縁】(ごえん)について

2016年3月掲載
【ご縁】(ごえん)について
 「この世に生まれて、いろいろ教えられ、みんなに出会って、まわりに助けられて、生かされていること。」
 この世に生まれることは、いろいろな条件が重なり合った奇跡です。お釈迦さまは、なぜこのように生まれて、苦しみがあるのか。老と死があるからと、生まれるから、老いて死んでいく。と悟りました。生まれることが因(原因)で、死ぬことが縁(結果)であります。お釈迦さまの教えに出会い、多くの人々に出会い、この世には苦しみや悲しみも多くありますが、生きていく事は、自分1人で生きているのではなく、まわりの多くの人々に助けられて、生かされています。
 道元禅師のお言葉に、「願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。」があります。願ってこの世この場所に生まれてきて、お釈迦さまの教えに出会ったことは、大変喜ばしいことであります。このように、奇跡に奇跡が重なることがご縁です。

【平等】(びょうどう)について

2016年2月掲載
【平等】(びょうどう)について
 国語の中に完全に溶け込み、仏教の気配すら感じられない言葉の中でも、実は、語源が仏教にあったという言葉は多いのです。
 平等は、仏教でいう五つの智慧「五智」の一つに平等平智という智慧があります。これは真実を見、「すべての物事には、わけへだてなく大切にしなければならない尊い本性がそなわっている」ということを知る智慧であり、それによって全てを分けへだてなく見ようという慈悲の心を起こせば、これが平等心となります。
 私、自身を省みれば、 子どもが複数いますが全ての子供に平等に接しているといえるかは疑問です。どの子も可愛いですが、はじめに生まれた子は、二十代の頃ですし、最後の子は四十代の頃です。私自身が変わっている以上、接し方も又、変わるでしょう。しかし、皆平等に接し様とする心が分けへだてない事なのではないでしょうか。

【老婆心】(ろうばしん)について

2016年1月掲載
【老婆心】(ろうばしん)について
 老心と思ういいます。道元禅師は「父母の心なり」と。見返りを求めることのない、深い慈しみの心のことです。
 老婆心は、老心・婆心ともいいます。私たちは、普段、必要以上にくどい親切心の意味に使っています。開祖道元禅師は、「典座(てんぞ)」と言う修行僧の食事を司る僧の心得などを示した「典座教訓」の中で、老心とは「父母の心なり」と言われています。
 「自らの寒さを顧みず、自らの熱さを顧みず、子を蔭(おお)い子を覆(おお)う。」
 親というものは、自らの寒いことも熱いことも忘れて、子供を熱さからかばい、寒さから守る。典座が釜の水をみるときも、穀物を扱う場合も、親が子供を育てる時のように慈しみ深く、真心を持って努めよと。
 私たちは、これだけやってやったから、これぐらいのお返しは来るだろうとか、これぐらいは儲かるだろうとか、見返りを期待することがあります。道元禅師は、一途に他のもののことを思い精進することを老心、老婆心という言葉で示されています。

【寿】(ことぶき)について

2015年12月掲載
【寿】(ことぶき)について
 寿は「ことぶき」と読み「いのちながし」という意味でお祝いの言葉。寿福、寿安など熟語も多い。
 長生きは、それだけでめでたいこと。
 長寿の人には、長い人生経験の中で、積み重ねた知恵があります。長いということは、それ自体値打ちがあると、昔の人は考えました。
 しかし、人間、自分が歳をとったことは、なかなか普段意識しないものです。
 人は必ず歳をとります。そして、いくらあがいても、それを防ぐことは出来ません。それならば、豊かな心を持って良い歳の取り方をすればいいとは言っても、なかなか難しいものです。
 私たちの周りには、うらやましいほどにはつらつとして輝いて見える、お年寄りが達がいます。そうした方々を敬い見習いながら、良い年を重ねていけるよう心がけることが大切でしょう。
 一年一年と、さらに自分が豊かになっていくことを感じながら、人生を楽しみたい。一度の人生、悔いのない命の使い方をしていきたいものです。
 江戸後期の儒学者、佐藤一斎が書かれた『言志晩録』の第六十則に「少にして学べば則ち壮にして為す有り、壮にして学べば則ち老いて衰えず、老いて学べば則ち死して朽ちず」(訳、生きている限り学べ、学べば必ず幸せになる)と、あります。
 「生きる」というのは「学ぶ」ということ。そして命を大切に、自分を大切に、大事に歳を重ね、長く重ね続けていきましょう。

【煩悩】(ぼんのう)について

2015年11月掲載
【煩悩】(ぼんのう)について
 除夜の鐘を百八鳴らされるのは、百八ある煩悩を滅するためとされます。百八の数え方はいろいろありますが、煩悩の根元は、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(物事の正しい道理を知らないこと)の三毒であるとされています。これに、慢(他人より勝っていると思う自己中心的な心)、疑(仏教の教えに対する疑い)。見(あやまった見方、邪見)を加えて六つの根本煩悩が説かれました。
 現代において、子煩悩は自分の子どもをとてもかわいがることして使われます。良い意味に見えますが、他人から見ると自慢して子どもにとらわれていて、煩悩そのものです。
 慢の中に、我慢があります。我慢するとは、耐え忍ぶ、辛抱すると良い意味で使われますが、自分がすぐれていると、おごりたかぶりわがままであることと、仏教では悪い意味で使われてきました。この世は、煩悩がなければ生きていけないのです。

【無分別】(むふんべつ)について

2015年10月掲載
【喫茶】(きっさ)について
 禅の公案に趙州喫茶去という話があります。
 中国は唐の時代、趙州という禅僧がおられました。この方は誰が訪ねてきても「まあお茶でも召しあがれ」と言われたそうです。ある時、弟子の方がこう進言したそうです。「見ず知らずの人にまでに、用件をきかぬうちからお茶を奨めるのはどうでしょうか?」と。これを聞いて趙州和尚様は居間から彼を呼びました。彼が用件を聞くと「おお、よく来てくれた。お茶でも召し上がれ。」といわれたそうです。
 日本では曹洞宗の瑩山禅師が「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と説かれております。これは日常茶飯事の中に禅の心があるという事です。禅宗によって茶が日本に紹介されて以来、喫茶の習慣は日本人の中へ深く浸透してきました。
 今日でも茶道は盛んであり、茶道を習うものは、その精神が禅の精神であるとされております。無心に座して只お茶をいただく。一期一会の境地、これが喫茶の心でしょう。

【無分別】(むふんべつ)について

2015年9月掲載
【無分別】(むふんべつ)について
 一般的に、ものごとの善悪、正誤をわきまえて判断するとき分別があるといわれる。
 一方、思慮がなく軽率なとき無分別といわれる。しかし、私たちの心に「わが身がかわいい」という思いがあるかぎり、善悪をわきまえたつもりが、実は自分の都合のよいように判断しただけかもしれない。
 「わが身がかわいい」という思いをもとに自他を分け、多寡優劣を競うところに苦悩が生まれる。そうした苦悩の本質を明らかにして、沢木興道老師は「得は迷い、損は悟り」といわれた。皆が得ようとしている社会で損をしようとは分別がないように思われるが、この無分別こそ苦悩を除く唯一の智慧である。

【慈悲】(じひ)について

2015年8月掲載
【醍醐味】(だいごみ)について
 牛乳を精製していく過程で生まれてくる五つの味を「五味」(ごみ)、その最上のものを醍醐といいます。非常に濃厚な甘味で、薬用に用いられたことが、インドから伝えられた仏典に登場します。釈尊の説法の仕方が、五味のように次第にレベルが高くなってなったというたとえから、醍醐は、仏教の最上の教えを指しています。
 醍醐味とは、単に楽しい、面白いと言う意味ではなく、物事の本当の面白さ、真髄を究(きわ)めていくことでしょう。
 四五〇年続く、石垣の穴太衆(あのうしゅう)積みを伝える粟田純司さんは、インタビューの中で、「美しくあってこそ石垣、築くときの心構えは、石の声を聞くことです。ただ、今までこの仕事をやってきて、完璧だと思える石垣はできたことがありません。親父も全く同じことを言いながら亡くなりましたが。)と。
 どんなに上達しても「もう、これでよし。」と言うことがないところに、人生の醍醐味があるのでしょう。

【慈悲】(じひ)について

2015年7月掲載
【慈悲】(じひ)について
 慈悲という言葉は仏教用語であることは誰しも理解できるでしょう。
 特に「慈」という言葉をパソコンなどで変換するとき、この字のついた言葉も沢山の候補の単語が表記されます。
 「慈」はいつくしみの心、「悲」は他者の苦しみに同情して、これを救おうとする思いやりを表します。分かりやすく言えば人が喜んでいるときは共に喜び、人が悲しんでいるときは共に悲しむことです。道元禅師様の教えで表せば「同事行」ともいえるでしょう。
 また、この心を別の言葉で表すと四無量心ともいいます。それは四つのはかりしれない他の人々を利益し、救済につとめる心、「慈、悲、喜、捨」の四つをいい、これらの心を無量におこして、無量の人々を悟りへと導くことです。
 「慈」とは生けるものに楽を与えること。「悲」と苦を抜くこと。「喜」とは他者をねたまないこと。「捨」とは好き嫌いによって差別しない。という意味があります。
 来る2020年には東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。その大会の招致する時のプレゼンテーションで「おもてなし」という言葉が使われ話題となりました。この「おもてなし」という心使いも慈悲の実践のおつとめではないでしょうか。
 日々の生活においても「慈悲」の心を常に保てればもっと平穏とした安楽の世界が待っていると私は信じます。

【出世】(しゅっせ)について

2015年6月掲載
【出世】(しゅっせ)について
 昨今では「勝ち組」、昔は「末は博士か大臣か」などという表現があった。
 世間一般においては、会社組織などで高い位に昇進する意味で用いられるが、出家して僧侶になることを「俗なる世間を出る」ので「出世」とか「出世間」という。
 また「世間に出現する」という意味で「出世」を使う場合には、仏さまが衆生を救い導くためにこの世においでになることをいう。

【大衆】(だいしゅ)について

2015年5月掲載
【大衆】(だいしゅ)について
 一般的には、『たいしゅう』という読みですが、仏教用語では『だいしゅ』となります。
 「大」=「多い」多衆の人ということです。仏教一般では、人数の多少なく一所に集まり、共に修行を励まし合う僧を大衆といいます。また説法を聴きに集まった人々、あるいは出家者たちの集まりを指すのです。
 修行道場の心構えの一つに、大衆一如(だいしゅいちにょ)と示される言葉があります。「目的を同じくする者は、行ずること全てにおいて、ひとつになるよう心掛けなさい」というお示しです。例えば、禅修行での食事は、皆同じ作法によって行います。しかし作法や食べる速度は人によって異なります。早い人は少し気を遣って速度を遅く、また遅い人はなるべく早く食べるように心掛けるのです。しかしやはりまちまちになりますが、食事を終えるときは皆一緒にお唱えをして、お作法に則り食事を終えます。そこでは他人に愚痴を言わず、共に理解し励まし合う姿勢を大事にするのです。今の一般社会では、目的や利害が異なる様々な人の集まりを大衆としますが、もとの言葉の成り立ちは、慈悲の心を共に持ち合い励まし合う私たちを表現した言葉なのです。

【心配】(しんぱい)について

2015年4月掲載
【心配】(しんぱい)について
 臨済宗の高僧、山本玄峰老師は「心配」について、「人には親切、自分には辛切、法には深切であれ」と展開されています。特に法に深切、法つまり本当の生き方に対して、できるだけ深く心を配りなさいといわれます。
 心配、心を配る、思いやりの心(気持ち)、そして優しさは、社会生活を営む上でとても大切なことであり、人と人とのかかわりにおいて欠かすことは出来ません。しかし、頭の中では理解していても、実際の行動に移すことは、なかなか難しいものです。まずは身近なところから、毎日の生活の中から始めることが大事なのです。自分にとってもっとも身近な日常というと、家族とのかかわり家庭のあり方でしょう。お互いが自然に、相手に対して細かく心配りをすることは、難しいかもしれません。自分としての心配りが、相手にとって大きなお世話になることもあるでしょう。だから、出来るだけ深く心を配ることが大切なのです。
 心配とは、自分にも他人にも分け隔て無く心を配ってゆくことです。このように生きることが「本当の生き方」なのではないでしょうか。

【奈落】(ならく)について

2015年3月掲載
【奈落】(ならく)について
 仏教では迷いの世界を六道という。奈落は六道のいちばん下、もっとも苦しいところ、すなわち地獄である。
 六道のうち、最も高いところ、幸せの頂点が「有頂天」であるが、実は奈落から有頂天までの六道は凡夫の輪廻するところで、有頂天は常に危うく、奈落と隣り合っている。有頂天と奈落は上下の関係であるのではなく、隣接関係である。
 人の上に立っていると、自分を誇り、人を見下すこともある。このように他人より自分が上に立っていると思っている人は、非常に危うい人生を生きている。現代に生きる人の学歴主義、出世観がこれである。
 仏教徒の人生は、その立ち軸はくらべ合いの六道にあるのではなく、菩薩の四摂法・共生のせかいにあって、くらべ合いから離れた世界であるに他ならない。

【我他彼此】(がたひし)について

2015年2月掲載
【我他彼此】(がたひし)について
 我他彼此、それ自体は立場による呼び方の違いを表しているだけです。
 でも、「対立する様子」という意味があるのは何故でしょうか?
 物事には元々違いがあるのは当たり前なのですが、人はそこに我他や彼此、長短や大小、優劣や迷悟といった相対する見方(我他彼此の見解)を持ち込みます。
 そして、その差や別の違いをとても気にし始めます。
 それが度を越し誤解や偏見が生まれ、互いの対立にまで暴走したのがガタピシです。
 詩人の金子みすゞさんは『私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のようにたくさんな唄は知らないよ。』と、万象の違いをうたい。
 『鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。』と、ガタピシしない生き 方を詩に残しています。
 我他彼此とは一面、対立の正体に気付き暴走を戒める言葉であるのかも知れません。

【ご利益】(ごりやく)について

2015年1月掲載
【ご利益】(ごりやく)について
 宝くじが当たる事や、お金が儲かる事でもなく、自分の思い通りに地位を獲得する事や、名声を手に入れる事でもありません。
 今、私がこうして生活出来ている事が、ご利益を頂戴していることです。
 自分では到底知ることの出来ない様々なご縁によって、生かされているのですから、一日一日を好き日であると感謝して生活してまいりましょう。

【精進】(しょうじん)について

2014年12月掲載
【精進】(しょうじん)について
 精進は仏教語でインドのサンスクリット語の「ヴィーリヤ」の訳である。努め励むこと、悟りを開くために精励すること、心身を清めること、仏門に入って宗教的な生活を送ることなどをいいます。
 一般に、仏教が建前として肉食するのを禁じていたことから、後に魚や鳥、獣の肉を食べないことをも意味するようになりました。ここから精進料理といえば、一般に先祖の忌日などに食する、菜食料理を意味するようになったのでしょう。
 最近では、精進料理がちょっとしたブームになっており、飽食時代ともいわれる現代社会のなかでは、ヘルシーでダイエットにも効果的な食事として、また栄養バランスのとれた健康食として、人気を集めているようです。
 仏教でいう精進とは、正しい努力でなければなりません。仏教の根本精神は中道にあります。だから、努力のしすぎは仏教の精進とは異なるものです。現代の日本人は、競争、競争といった競争原理を前提に生きています。そんな日本人の仕事中毒的な働き方は、仏教の精進にはなりそうもないと思います。
 仏教の精進は、身体にも心にも偏りのない、ゆったりとした努力の意味であります。

【万事休す】(ばんじきゅうす)について

2014年11月掲載
【諦める】(あきらめる)について
 どうにかしようという気持ちを捨て去ることで、消極的なマイナスイメージを色濃く持っている言葉である。
 この言葉は仏教起源のものである。
 「諦」(たい)は、「真実」を意味し、「諦める」『真実を明らかに知る』『さとり』ということになる。

【万事休す】(ばんじきゅうす)について

2014年10月掲載
【万事休す】(ばんじきゅうす)について
 今日では、「なすすべもなく、終わりだ」という悲観的な意味で使われている「万事休す」ですが、もともとは「休息万事(ばんじをきゅうそくす)」という禅の言葉が変化したものです。
 「万事」とは、自分を取りまく環境や、自分自身のこだわりをいい、「休息する」とは、それらから離れることを意味しています。まわりの環境に心を惑わされず、持っているこだわりから離れると、私たちの心は落ち着き、安らかになります。
 もうだめだ、万事休す、と思ったときこそ、万事を休息するときです。まわりに振り回されている自分から、そして頑なに持ち続けているこだわりからいったん離れてみると、案外そこに新しい道が見えてくるのではないでしょうか。
 どんなときも、人生をあきらめず、そして心安らかに生きていきたいですね。

【洗面(せんめん)】について

2014年9月掲載
【洗面(せんめん)】について
 洗面は曹洞宗の御開山、道元禅師さまが、修行僧の生活規範として教えられ、一般の人々にも行われるようになりました。
 毎朝、皆さんの顔は汚れてしまっているでしょうか?
 洗面は顔が汚れているから洗うのではありません。顔を洗うという行いによって、心も洗うのです。
 身体を清め、心も清め、全身を清浄にする事によって、行いも自ずから清らかなものになるのです。
 皆様も毎朝、清らかで間違いのない正しい行いを願って顔を洗う洗面をして頂きたいと思います。

【竹篦返し(しっぺがえし)】について

2014年8月掲載
【竹篦返し(しっぺがえし)】について
 一般的にしっぺ返しは、何か仕打ちを受けたらすぐに仕返しする様、と解されています。でも本来は、目覚めるか否かという緊迫した一瞬の機微を表している訳ですね。
 ところで、この竹篦返しが想定外の形で私たちに対して突きつけられているのは、皆さんすでにお感じのことと思います。
 地球規模の気候変動による各地の自然災害は、その最たるものかも知れません。それだけではありません、科学や経済など人間の営みの分野に於いても、過信に対しては恩恵を上回る損害を突きつけています。
 仕返しか目覚めへの契機か、受け取り方は人それぞれでしょう。しかし、いずれにしても今まで通りではいけないことは明白です。
 竹篦が打ち込まれた今この時、まさに受け手の力量が問われます。ここで自分たちの利益のみを考えているようでは、窮地を脱するどころか後生に禍根を残すことにもなります。
 心機を一転させる痛棒の意味を私たち一人ひとりが受けとめなければいけません。

【有頂天】について

2014年7月掲載
【有頂天】について
 有頂天と言う語は得意の絶頂にいたったこととして使われる。しかし、それは世間的価値観(世間法)の小さい枠の中でのくらべ合いでの絶頂ということでもある。
 有名大学に合格、一流会社に就職、課長、部長、社長、あるいは校長など「長」 と名のつくポストにいたったことを人々はよろこびとし、しあわせとする。
 しかし、これらの肩書きを人生の栄光を意味する名誉の肩書きとして、この持ち物に執着するならば、まさに有頂天と言う最高の境地が地獄と言う暗い底辺の世界とひとつながりになる。
 仏教の最高の安心(あんじん)は「天」でも「天国」でもない。そのような価値の上下によるランクから自己を解き放って苦の衆生と共に生きることが仏教の理想である菩薩生き方なのである。
 有頂天は迷妄・苦に満ちた三界の絶頂ではあっても仏教ではない。

【ありがとう】について

2014年6月掲載
【ありがとう】について
 ありがたい
 漢字で書くと「難有」と書きます。
 「難がある」といっても決して欠陥品のことではありません。
、  仏教からきた言葉で、人として生まれ、仏様の教えに出会うことは、有ることが難しい、ありえない、めったにない「その、めったにないことに出会えたことに、感謝します」という意味です。
 そこから感謝の言葉として「ありがとう」となりました。
 意味を深く考えるととても良い言葉に気づきます。

【普請】(ふしん)

2014年5月掲載
【普請】(ふしん)について
 「あまねく請う」ということで、お寺じゅうのお坊さんを集め、共同でなんらかの仕事をしてもらうことを意味した。
 やがて「道普請」などといって、公共の道や橋を作ったり、なおしたりするのに村人全員が協力して勤労奉仕のことを意味するようになった。
 特に村では「家普請」といって個人が家を建てたりするときも村をあげて協力することを「普請」といった。
 「共生」する為の人の知恵から生まれた言葉ではないかと思います

【挨拶】(あいさつ)

2014年4月掲載
【挨拶】(あいさつ)について
 挨拶は、もともと「一挨一拶(いちあいいっさつ)」などと用いられた禅の言葉です。師匠が弟子の悟り具合をみたり、修行者同士がお互いの悟りの深さを推し量るため、声をかけたり問答することをいいました。
 お互い悟りの深さを推し量るのですから、挨拶は真剣そのもので、お互いに切磋琢磨する大切な修行の一つでした。命から命へ問いかける言葉が挨拶だといってもよいでしょう。
 ひるがえってみると、私たちの「あいさつ」はおざなりになっていないでしょうか。毎日会う家族や友達、仕事仲間に形だけの「あいさつ」をしていないでしょうか。
 挨拶は、自分の心を相手に伝える言葉であると同時に、相手の心を思いやる言葉です。今日も私は元気にやっているよ、あなたは元気にやっているかい? 「おはよう」や「こんにちは」の一言の中には、たくさんの気持ちが詰まっています。
 今日も一日、命から命へ、心をこめてあいさつを!

【無造作】(むぞうさ)

2014年3月掲載
【無造作】(むぞうさ)について
 世間的な使い方では、「造作」は、1、しかた・やり方・手段、2、手間がかかること・手数・めんどう、3、もてなし・ごちそう、などの意味に使い、「無造作」は、1、慎重にではなく、2、簡単に、3、気軽に取り扱う、などの意味として使われている。
 しかし、仏教、特に禅では、この2つの語はまったく違う意味を持つ。
 まず「造作」とは、凡夫の願望で煩悩によってつくられた世界、すなわち人間の自己都合に合わせてつくられた世界のことである。
 「無造作」とは、そのような凡夫の煩悩・妄想が脱け落ち、般若心経にいう「無ケイ礙(むけいげ)」の世界、すなわち生老病死の束縛を脱したところの「この生死(しょうじ)はすなわち仏のおんいのちなり」の生き方を指す言葉であり、きわめて重要な意味をもつ仏教語である。
 造作は「有為(うい)」に、無造作は「無為(むい)」に対応し、共通の意味をもつ語である。

【檀那】(だんな)

2014年2月掲載
【檀那】(だんな)について
 「檀那」と「旦那」読み方は同じですが、漢字にしますとこの様に二通りになります。さして使い方に違いはないのですが「檀那」とは古くは貴人の敬称として使われ、一方のこの「旦那」とは目下の者が目上の者を呼びかける時に用いています。
 又檀家とは、決めた寺院に葬儀や年忌法要、墓参りなど仏事の全てを任せた間柄となり信者の方々をそう呼びます。布施等でお寺を支えることも大切な責任の一つとなっていきます。この布施をする人のことをダンパティと梵語でいいますが、感謝の気持ちで施を供えることは功徳を積むことに通じることでもありましょう。
 現代においては旦那という字が良く使われておりますが、お寺の行事など積極的に参加して世話をし、又社会的にも人望のある人たちを旦那衆と呼んでおりますが最近においてはあまり使われることも少なくなりました。

不思議(ふしぎ)

2014年1月掲載
【不思議】(ふしぎ)について
 「世にも不思議な出来事だ」などと言われるように、「不思議」という言葉は一般的に「奇妙な」「思いもかけない」という意味で使われる言葉です。
 古代インドのサンスクリット語が中国に伝えられた際、この言葉は「不可思議」と訳されました。「思議(しぎ)すべからず」と読みますから、単に「奇妙な」といった意味ではなく、私たち人間の考え、思慮分別の及ばないところ、言語では表現できない仏の智慧、菩薩の慈悲などの働きを形容する言葉として用いられました。それが今では「不思議」と略され、転じて常識では理解できないことの意味に用いられるようになったのです。
 人として、そして、両親の子として生まれ育ち、今ここに、このように存在することの縁はとてつもなく奥深く、説明などできるものではありません。幸せな人も、今そのように感じることのできない人にも、この生はまさしく不可思議そのものです。ならば、この不可思議な縁をどう引き受け、どう生かし、どう豊かにしていくかということこそが、私たちの一大テーマであります。お釈迦様はまさに、そのことを私たちに問いつづけているのです。

一大事(いちだいじ)

2014年12月掲載
【一大事】(いちだいじ)について
 もとは、「一大事因縁」として用いられていた仏教の言葉で、『法華経』というお経の中に、「仏さまは、一大事因縁によって世に出現された」とあります。
 それは、「人々を悟りへと教え導くという偉大な目的と仕事のために、仏さまがこの世に現れた」ということです。つまり、仏さまにとっての「一大事」とは、「人々を悟りへと教え導く」ことであり、「因縁」とは仏さまの教えと私たちが「縁」で繋がることを意味しています。
 もし、私たちが自分の人生を変えるほどの仏さまの教えに出会えたならば、それはまさに「一大事因縁」と言えるでしょう。
 しかしながら、何もせずに待っているだけでは、仏さまの教えに出会うことは難しいようです。自らも仏さまの教えを求め続けていくことが大切です。仏さまが私たちを教え導きたいと誓う慈悲の心と、私たちが仏さまの教えを求め願う心が、お互いに引き合って「一大事因縁」が生ずるのです。

六根清淨(ろっこんしょうじょう)

2013年11月掲載
【六根清淨】(ろっこんしょうじょう)について
 身体的感覚の、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五根は、人間の持っている感覚です。これらの働きにより外と繋がり、心ともいえる、意根という内面的な感覚によって、楽しさ、苦しさ、善さ、悪さなどを知覚します。
 いやなことを聞いたり見たりする、考えたりする。そんな汚れてしまった六根をキレイにする、その修行のかけ声が六根清淨、どっこいしょ です。
 かけ声があるのは、日本語だけのようです。英語にも、中国語にも有りません。
 日々の行動を、修行とし「どっこいしょ」とかけ声かけて、がんばりましょう。

我慢(がまん)

2013年10月掲載
【我慢】(がまん)について
 仏教語としての「我慢」は自己の中に潜む慢心を指します。
 ですから世間では「何事も我慢が大事」と言われても、仏教的には制御すべき厄介なものなんですね。
 一般で言ういわゆるガマンは、仏教語の【忍辱(にんにく)】「耐え忍ぶこと」にあたります。
 忍辱は苦難を耐え忍び心を平穏に保つことを言い、菩薩行の一つに数えられます。
 お釈迦様最後の教え「遺教(ゆいきょう)経」に「もし怒り恨む心を放置すれば当然のこと修行を妨げその功徳も失われる。  だからこそ忍辱行は苦行や戒を持する修行も及ばない勝れた修行といえるのです」とお示しです。
 ひとたび怒り憤る心が起これば猛火よりも甚だしい。故に付け入る隙を与えないよう常に防護しなさい、とも示されます。
 夫婦の諍いから国家間の争いまで、出火原因は些細な事でも鎮火させるにはかなりの労力が要ることは身に覚えのあるところです。
 お釈迦様は「たとえ誰かがあなたの身を引き裂こうとも、心を平穏に保ち、怒り恨む心を起こしてはならない」と忍辱行の重要さを説かれます。
 実行はとても難しそうですが「何事も忍辱が大事」ということは伝わって参ります。

内緒(内証)(ないしょ)

2013年9月掲載
【内緒(内証)】(ないしょ)について
 心の内で悟ること、心の内の悟りを内証といいます。
 人の内証について他の人が外からはうかがい知れない事から秘密のことを指す言葉として使われるようになりました。
 人は自分の悪い事を秘密にして人に知られないようにと思いますが、悪い事は秘密にしてもいつかは知られてしまいます。反対に良い事をすると人に知って欲しい。そして褒めてほしいと思いますが、そういう時程人にはなかなか知ってもらえません。
 良い事をしても人に知られないようにする事が良いのです。仏様が全て見ていて下さいますから。
 日々の生活の中では、悪い事が表に現れ、良い事は隠れているので、どうしても様々な争いや喧嘩が起きてしまいます。
 一見嫌なことを言ったり、する人が、実は自分の評判や、損得を考えない思いやりのある人だということもあります。
 みんな仏さまのやさしい心を持っていますが、それは外からはなかなか解りにくいのです。
 本当はみんな仏さま!でもそれはないしょ!

【縁起】(えんぎ)

2013年8月掲載
【縁起】(えんぎ)について
 仏教の基本的(お釈迦さまの御教え)な教えである。物事が起きるには「原因」があれば「結果」が出てくると思いがちですが、この「因」と「果」の間で働くのが『縁』である。
 良い種を植えるだけで良い実りを得られるでしょうか。良い種を植え、水をやり、草を取り、陽の恵み・お陰を得て良い実りを得ることができます。
 今私達は、『人生』の「縁」の毎日を勤めています。良い実りを得るために!
 受けた御恩は「おかげさま」という言葉とともに深く心に刻み、人に与えた恩は水に書く文字のように自分の心にとどめない、こういう人になりたいと思います。

お蔭さま(おかげさま)

2013年7月掲載
【お蔭さま】(おかげさま)について
 人生にとって出逢いはとても大切です。どのような人に出逢ったか、またその出逢いから何を学んだかということで私の人生がつくられたとも言えます。
 良い出逢いもあります。悪い出逢いもあります。しあわせになった出逢いもあり、憎しみの出逢いもあったでしょう。
 しかし、受けた御恩をしみじみと心に感じることのできる人は、とてもしあわせな人生であったと言えます。親、先生、友人、夫、妻との出逢いに感謝できる人も、しあわせな人生であったと思います。受けた恩は岩に刻んで忘れない人は心の豊かな人ですが、憎しみを岩に刻む人はとても不幸な人です。おかげさまという言葉も、どうやら2つの使い方があるようです。あの人のおかけで今の自分がある、ありがたいと思うときの「おかげさま」、あいつのおかげで私は不幸になった、あるいは誰のおかげと思っているか、恩知らずめと恩を押し売りする場合。
 受けた御恩は「おかげさま」という言葉とともに深く心に刻み、人に与えた恩は水に書く文字のように自分の心にとどめない、こういう人になりたいと思います。

玄関(げんかん)

2013年6月掲載
【玄関】(げんかん)について
 悟りの境地に到る大切な関所・場所。昔、中国の禅宗寺院で、寺の入り口に玄関の二字を額に書いて掛けて置き、禅院の性格を内外に表明し、おたがい修道心の喚起に努めたことから、禅院の客処の入口を玄関と名づけるにいたった。日本に伝わったのは鎌倉時代である。(禅学大辞典より)
 玄関では「いってきます」と今日一日の始まりがあり「おつかれさま」と迎えていただける場所です。また様々な方々との出会いが、始まるところでもあります。
 拙僧のいる寺の玄関には、尊敬する老師から玄関に因んでの揮毫(きごう)により「関機、前に在り」(かんきぜんにあり)と書かれた衝立があります。
 その意味は「関わるものすべては、まず自分の前にある」「嫌なものも目をそむけず、まずうけいれてみなさい」との厳しい言葉でした。
 玄関は本来そんな覚悟も必要なところなのでしょう。それは、お寺での生活のみならず皆さまのお家でも同じ事でしょう。ですから玄関はいつもきれいにし、履物はそろえておくことが肝要となるのです。それが自他共に心を調える事にも繋がり、人々の最善な関係を築くきっかけとも成るのです。

無事(ぶじ)

2013年5月掲載
【無事】(ぶじ)について
 仏教での無事は、こだわりなき障り(さわり)なき状態をいいます。
 私たちは何事もない日常を望みますが、世の中は自分の思い通りには動かず日々変化をします。
 何もないということはあり得なく、もしそうであれば世の中は空虚なものになってしまうことでしょう。
 「日々是好日」という禅の言葉があります。単なる日々の無事を願う言葉ではなく、たとえ思うように運ばない毎日でも、愚痴らずへこまず、前向きに大切に自分が出来る範囲内で、今この一時・一瞬を精一杯生き抜く事への励ましのお示しです。
 この思いが、きっと私たちを無事へと導いてくださいます。

安心(あんじん)

2013年4月掲載
【安心】(あんじん)について
 一般的な読みは「あんしん」ですが、仏教語では「あんじん」と読みます。
 仏法によって心が安らぎをうること。心を一点に止め、定着させること。本性に安住して身心が安定不動なること。(禅学大辞典より)
 この世は「なかなか自分の思い通りにならない」ことが多くあります。しかしその反面、楽しく思うこともいっぱいあるはずです。
 お釈迦さまは、人が生きていく中で、思い悩む原因を究明し、その原因を取り除く方法を一心に考えました。それがお経となり、また禅の教えとなって皆に伝わり安心を与える手立てとなりました。
 私たちは自らの目的などが達成できずに、思い悩む時など「四苦八苦」(しくはっく)という言葉を使いますが、これも仏教の言葉です。ご存じでしたか?
 お釈迦さまは、「生・老・病・死」(しょう・ろう・びょう・し)は、誰もが思い通りにならない根本的な不安なことであるといわれます。そして、たとえ愛しく親しい者とも別れなければならない-愛別離苦(あいべつりく)・怨み憎んでいる者に会う-怨憎会苦(おんぞうえく)・求める物事が得られない-求不得苦(ぐふとっく)・五蘊(人間の肉体と精神)が思うようにならないこと-五蘊盛苦(ごうんじょうく)が合わされて「四苦八苦」といいました。
 こうなると、生きているうち全てが苦しみと考えてしまい、不安に思うかもしれません。
 しかし私たちが、生きることの本質は、安定は無くすべての物事は移り変わるものです。それを知った人には、大きな勇気が生まれるのではないでしょうか。「すべては変わる」ということは「すべてが変えられる」ということです。お釈迦さんは、自分の未来は自分自身により還ることが出来ると説いておられます。人は運命を変えることが出来るから生き甲斐があるのです。まず「自分の思い通りにならない」と嘆くのではなく、変化に合わせて自分も変わればいいのです。変わることを恐れているうちは、不安から開放されず、自由と安らぎを得られません。
 安心は、人や環境からいただくこともありますが、まずひとりひとりが安心を与える私たちでありたいと願います。

2011年2月28日掲載

2010年11月29日掲載

2010年8月30日掲載

2010年5月31日掲載

2010年1月11日掲載

2009年12月15日掲載

2009年11月16日掲載

2009年10月12日掲載

2009年9月14日掲載

2009年8月10日掲載

2009年7月13日掲載

2009年6月16日掲載

2009年5月11日掲載

2009年4月14日掲載

2009年3月30日(31日)掲載

2009年2月23日・3月9日掲載

2009年2月10日掲載

2009年1月26日掲載

2009年1月12日掲載

2008年12月22日掲載

2008年12月8日掲載

2008年11月24日掲載